石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時を越えた讒臣であった。
彼はある時、太閤秀吉に密かに申し上げた。
「現在は、御世長久に治まり四海の内に、
旗を立てる(反乱を起こす)者は一人も居りません。
さりながら、会津宰相(蒲生氏郷)は、謀も優れ、
良き侍をも数多持っており、先年九戸一乱のみぎり、
私は現地に下って彼の計略を見たのですが、彼の軍勢の人数、
そして実施されている法度の数々には目を驚かされました。
あのような良将を愛して置いては、虎を養えば必ず踵を返すとも言います。」
秀吉も常々、氏郷を訝しく思っていたため、
彼を失わせるための談合評定を行わせた。
その頃、天下一の大名で、
殊に武道に優れていたのは江戸大納言(徳川)家康であったが、
家康は謀に達していた。
故に、秀吉の前では作って凡人を装っていた。
しかし、氏郷は錐が袋に収まらぬ風情にて、
言葉のはしにも人に指をさされまいと心がけていたため、
秀吉が警戒したのも仕方がないのだが、
かといって忠功第一の人であるのでどうにも手出しできなかったため、
「人知れず毒飼いをせよ。」
という結論に至り、ある時、氏郷に毒を盛った。
この毒が祟ったのだろうか、朝鮮征伐の頃、下血を病み、
さらにその頃から気色常ならず、面色は黄色くなり、
頬の肉が痩せ、目の下もすこし浮腫した。
秋頃、法眼正純を召して養生薬を用いたが、その後も腫腫やや甚だしく、
名護屋にて宗叔の薬が合うのではないかと言われ、
彼を召してその薬を用いいたが、その験無かった。
この年の12月朔日、
太閤秀吉は何を思ったか江戸大納言(家康)、加賀中納言(前田利家)に、
「諸医者を集め氏郷の脈を見せよ。」
と命じた。
両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め脈を見せた。
彼らは皆「重体です。」と答えた。
明けて文禄4年正月まで、宗叔の薬を服用していたが、
氏郷の気力は次第に衰え、それより道三の薬を用いた。
しかしながら回復はもはや叶わず、同2月7日、
生年40歳で、京都にて朝の露と消えたのである。
この時の辞世の句はこのようなものであった。
「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風」
未だ勇々しき年歳を一期と見捨てられたこと哀れなる事どもである。
近習外様の老若男女、賤男賤女に至るまで泣き悲しんだが、
もはや詮無きことであった。
その後、葬礼が美々しく取り繕われ、紫野大徳寺の和尚を請して一時の烟となった。
その戒名は『昌林院殿前参議従三位高岩忠公大禅定門神祇』と号された。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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