蒲生再生工場の名を戴くなど、人作りに関しては高く評価される蒲生氏郷。
が、この人、町作りが大変に下手だった。
1588年、氏郷は伊勢松坂に転封、城下町を作るが、これが大変に評判が悪い。
「伊勢の松坂毎着てみても、ひだの取様でまちわるし。」
当時このように揶揄されたとか。
「ひだ」は、着物の襞と、氏郷の官名「飛騨守」をかけたもの。
氏郷の町割りの悪さのせいで、松阪はひどい町になった、と皮肉った歌である。
さて、その2年後、1590年には今度は会津に転封される。
そしてここに会津若松の町を建設するが、
「黒かはを袴にたちてきてみれば まちのつまるは ひだの狭さに」
当然のように評判が悪く、またもこんな落書が出回った。
とにかく初期の会津若松というのは、
町としての機能がどうにもならないほど混乱していたようだ。
この頃になると流石に氏郷も、都市計画における自分の才能の無さに気がつき、
旧武田家臣、曽根昌世らに命じ、甲州流縄張術をもって町割りをやり直し、
やっと整然とした町となり、都市としての機能が回復した。
何事も完璧だと言われた氏郷にも、こんな欠点があった、というお話。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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