お陰を以って天下に面目を☆ | げむおた街道をゆく

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天正19年(1591)、

豊臣秀吉は隠居し、天下並びに聚楽城を猶子である三好中納言秀次へ譲った。

 

その官位昇進のため、同年12月28日、

秀吉秀次以下、天下の諸大名は、位次第に車にて参内をすることとなった。

この時、秀吉は、蒲生氏郷の次に伊達政宗、その次に山形出羽守(最上)義光と定めた。
ところが氏郷は御前に進み出て、

「山形(最上)は源氏の縁であり、その上政宗にとっては母方の叔父にあたります。
政宗の後にすべきではありません。」

このように申し上げたところ、

秀吉も、「そういう事なら。」と、

最上義光を政宗の前に立てた。

これを知った義光は謹んで氏郷に申し上げた。
「お陰を以って天下に面目を雪ぎました。

この御恩はいつの世に忘れることが有るでしょうか。
氏郷殿御一代、それがし一世の間に、会津に何事か有れば、

その御用に立ちましょう。
その証拠として人質を進上しましょう。」

それより子息の一人駿河守(家親)を、氏郷の生きている間は差し置いた。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。 

 

 

 

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