豊臣秀吉は、伊達政宗から奥州会津を没収した後、
奥の要地である会津を任せるに相応しい人物は誰かと考えていた。
そこで、自分が相応しいと思う人物の名を書き記し、
徳川家康にも同じようにさせた。
書き終わった後に札をひらくと、
秀吉が第一に堀左衛門、第二に蒲生飛騨守。
家康が第一に蒲生飛騨守、第二に堀左衛門、という結果になった。
秀吉は掌を打って、
「さてさて、名将の思慮は不思議にも一致するものだ。
順序は違えど、選んだ人物が同じとはな。徳川殿はいかなる心をもって、
このように見定めたのか」
と言った。
「まずは殿下の尊慮をうけたまわりたく思います。」
「奥州の人は情の強き者なれば、左衛門のごとき者でなければ、
鎮座することはできないだろうと思ったのだ。だから左衛門を第一とした。」
「では某の愚意ですが、屈強な奥州人を左衛門のごとき猛烈な者に、
治めさせれば、諺にいう『茶碗と茶碗の出合』のごとく、いずれ片方が
砕けることは避けられないでしょう。
氏郷は武略は言うに及ばず、文学にも志深く、和歌茶道を心得ており、
性質も温和です。そのような風流人ですから、屈強な奥州人を治めさせるには、
もっとも相応しいであろうと思い、第一に記しました。」
家康の意見を聞いて秀吉は、
「なるほどその通りだ。良い所に気付いたな。」
と言い、ついには氏郷を選んだ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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