天正18年に、
蒲生氏郷は豊臣秀吉より奥州会津を賜り、木村伊勢守(吉清)が葛西大崎を賜った。
その冬、木村の領分にて一揆が蜂起したとの知らせが氏郷の元に入った。
氏郷は雪中にも拘わらず、急ぎ妙佐沼へと救援に向かった。
この時、この一揆は伊達政宗が起こしたものだという風聞があった。
氏郷は速やかに出陣して所々の一揆を追い落としたが、
ここに新国上総という者、彼は永沼の城主であり、元は蘆名に属し、
その後、伊達政宗に従った人物であったのだが、彼が氏郷に面謁して言った。
「この度の一揆は、悉く伊達政宗が扇動したものです。
しかし現在雪中であり、分国の通路すら自由にならず、
また蒲生様は未だこの土地の案内も詳しくご存知ありません。
であればこのような救援の軍はうまくいかないでしょう。」
これを聞いて氏郷は答えた。
「汝の言うことも尤もである。
しかし、太閤殿下が奥州の背炙山まで御動座あって、
奥州の仕置を仰せ付けられたとき、木村伊勢守と私を左右に置いて立たれ、
二人の肩をつかみ、
『伊勢守は氏郷を兄と存じ、氏郷は伊勢守を弟と存じて、奥州のこと、
互いに相談して仕置をするように。』
そう命ぜられたのである。
であれば、たとえ途中においてこの氏郷が一命を失ったとしても、
伊勢守を見捨てては君命を蔑ろにし、義理を失ってしまう。
私は確かに昨今この土地に至り、地利を知らず、また雪中の時期であり、
人馬の苦しみは言葉にならないほどだ。
しかし、だからといって伊勢守を棄てるというのは、義において欠ける行為である。
伊勢守が討たれて私の命が残っても、
一体何の面目があって太閤殿下にお目通りできるだろうか。
これが、私が兵を起こして救援に向かう由縁である。」
そして氏郷は遂に勝利を得て、思いのままに一揆を退治し奥州を平均せしめた。
その勇功といい義を守ることといい、共に武士の本意に当たると言えるだろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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