天正15年、豊臣秀吉の九州征伐の時、
豊前の岩石城に熊谷越中という者が、多くの人数とともに立て籠もった。
この方面の先手の大将は堀左衛門督(秀政)であり、
「岩石は良き城なれば攻め損じては後に影響を与える」と、
蒲生氏郷をこの城の押さえとし、秀吉は秋月へと向かった。
この時、蒲生氏郷は岩石城の様子を詳しく見届けるために、
斥候の侍として、吉田兵助、周防長丞の二人を派遣した。
二人は岩石城の状態、また麓の様子などを見て回ったが、
そこにはひと一人無く、食を食べた跡もあったが、飯粒は乾いていた。
これを見届け、その通りに報告した。
次に氏郷は、布施二郎右衛門、土田久助の二名を岩石城に遣わした。
二人が帰って報告する話も、前の報告と特に違いはなく、
また先の飯粒の他に、一体いつ退去したのかを知れる証拠も無かった。
その後さらに、蒲生四郎兵衛に「見てくるように。」と斥候に出した。
四郎兵衛は見て帰り、
「岩石城の者たちは10日以上前に退去しました。」
と報告した。
「その仔細は?」
「このあたりでは10日ほど前に雨が降りましたが、その後降っていません。
また、道道には足跡が見つかりませんでした。雨の降った後まで居たのであれば、
必ず足跡が残っているはずです。」
この報告に氏郷は、
「見るべき所を見ている。」
と、褒美を与えたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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