蒲生氏郷が羽柴秀吉より勢州松島を拝領した頃は、
伊勢に限らず諸国未だ静謐成らなず、
小牧・長久手の戦いが始まっていた。
氏郷は松島に入部すると、
先ず領地の仕置を優先し、
日置へ押し寄せようという気持ちは全く無かったにも関わらず、
織田信雄の家臣である木造左衛門佐(長政)の支配する日置方面からは、
氏郷の領内へ夜な夜な人数が出て苅田などを行った。
氏郷はこれを聞くと、
「哀れ足長にも出てきたか。討ち果たしてやろう。」と、
方々に物聞(見張り)を置き、苅田をする者たちが侵入してくれば鉄砲を撃ち、
これを合図に松島より出撃しこれを討つ決まりとし、
これにより度々侵入者を撃退した。
この時、氏郷は早馬を以って真っ先に乗り懸かった。
これを見た木造長政は、謀略によって氏郷を討ち取ろうと工夫を考えた。
9月15日の夜、木造長政勢は氏郷の領分である会原という場所に侵入した。
この時、木造の家中において物頭をし、
発言権を持つほどの兵は残らずこの会原周辺のよき場所に伏兵として起き、
氏郷が駆けてくれば、
即座に討ち取れる準備をさせ、あとはいつものように苅田をさせた。
これに蒲生の見張りが気づき鉄砲を撃って知らせ、
この音を聞き松島より蒲生氏郷が駆けつけた。
その夜は月が冴えて、まるで日中のような明るさであったが、
氏郷はそこに真っ先に駆けつけ、その後に早馬を持つ兵たち7,8人が続いた。
彼らが入ってくると伏兵たちが一斉に起き上がり、氏郷たちを包囲し攻めた。
この時は流石に危うく見えたが、氏郷は馬の達者でありその騎馬も逸物で、
四角八面に懸け破り、突き倒しては駆け回り、乗り散らし乗り返し、
その戦いにおいて、
蒲生方の外池長吉、黒川ノ西、田中新平などと言った者たちは散々に戦い討ち死にした。
小姓の姿であった外池孫左衛門という者は氏郷の矢面に立ち塞がり防戦した。
この時、氏郷の銀の鯰尾兜に銃弾3つが当たり、鎧にも傷数ヶ所があったが、
その身には薄手すら負っていなかった。
このようなうちに、氏郷勢が追々駆けつけ、騎馬のもの7,80騎となると、
氏郷は敵の少ない所へそのまま馬を乗り入れ東西南北に懸け破り蹴散らし、
敗北した者は手下に討ち取らせ自身は追い打ちをかけ、
日置の城下まで追い詰め、木造家中にて物頭を勤める屈強の兵30余人、
その他甲冑をつけた者36,雑兵数多を討ち取り勝鬨を作り、
日置の城下から10町ばかり引き取った場所に陣を取った。
これにより、木造長政は在城を諦め、翌日詫び言をし命を助けることで城より退去した。
世間において「日置の夜合戦」と呼ばれるのがこれである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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