ある時、内藤修理(昌豊)が言われた。
「俵藤太(藤原秀郷)の子孫は、近江国日野の蒲生の一党である。
今、近江に蒲生忠三郎(氏郷)という利口なる若者がいる。
これは三河の家康などに少し相似た武士で、
江州においては浅井備前守(長政)に次いで、
この忠三郎が心ばせあると聞き及んでいる。
かの蒲生の家は、交互に一代弱く一代強い状態が続いているという。
その理由は、かつて先祖の俵藤太は王威を以って平将門公を討った。
しかし将門も名大将であったので、それを討った罰があり、
討った功徳と罰の両方が、かの家の侍大将に、
順番に弱み、強みと成って現れるのだそうだ。
忠三郎の親(蒲生賢秀)に対して、下劣な者共が作った歌に、
『日野の蒲生は武者けたよ 陣と申せばしもごしおこる。具足をうりやれ衣めせ』
(日野の蒲生は武者ぶっているだけだ。戦と聞けば臆病風に吹かれている。具足を売って風よけの衣を召したほうが良い)
こう歌われたそうだ。
しかしその子の忠三郎は、世の常ならぬ若者と聞く。親と子は違うものだ。」
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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