蒲生氏郷は、藤原房前の大臣六代の嫡孫・鎮守府将軍俵藤太秀郷の後胤である。
永禄十一年に、織田信長公は江州に討って入り、
佐々木(六角)を攻め傾けられた時、
氏郷の父である蒲生兵部太夫賢秀が信長の味方に参り、
子息鶴千代十三歳の時、証人として、信長へ進じると、近習に伺候され奉公した。
彼は他と異なるほど利根発明であったため、信長の御意に叶い、
ある時宣われた、
「汝が眼晴は常ならない。おそらく只者ではない。我が婿にするぞ。」
と、契約された。
元亀元年、信長が越前国に発馬の時、氏郷は十五歳にて鑓を合わせ高名を成した。
これが初陣であった。
その後、濃州岐阜の城にて元服あり、
その頃、信長は弾正忠であったため、「忠」の字を給わって、
蒲生忠三郎賦秀(または教秀)と名付けられた。
秀吉公の代に至り、「秀」の字を憚って氏郷と改められた。
元亀元年の初陣より文禄四年まで、氏郷自身の高名は三十六度であった。
太閤秀吉の時、氏郷を羽柴飛騨守参議宰相に叙任された。
初めて南伊勢五郡十二万石を領した。
その後、数度の忠戦、秀吉公の感心斜めならず、
その賞とりて奥州会津七十万石を給わり、
また奥州での軍功によって二十万石の加恩地が下され、
それらを合わせて百二十万石となった。
しかし、石田三成が企んだ如く、関白秀次公を思いのままに亡ぼしてから、
直江兼続との密談の通り、蒲生氏郷を失わせる事を図って、
文禄四年の春の頃、瀬多野掃部と内通し、能く示し合わせて、
氏郷を掃部の茶の会盟に招き酒を勧め、毒を飼った事によって、
同年二月七日、氏郷は四十歳にして、俄に心身悩乱し逝去されたのは、
いたわしいことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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