永禄四年(1561)、名将、長野業正も七十一歳。
老齢からの体の衰えは隠しようもなく、体調を崩し、人に会うことも少なくなり、
屋敷に籠もりがちの日々を送るようになっていた。
そんなある日、業正が家人に突然このようなことを言い出した。
「そろそろ客があるだろうから、迎える用意をしておくように。」
不思議に思いながらもその準備をしていると、程なく、
羽尾に引退した真田幸隆が旧恩のお礼の言上にと、業正の元を訪れた。
真田幸隆殿がいらっしゃいました。
そう聞くと業正は、
「そうだろうと思っていた。」
と、手を打って喜んだ。
そして幸隆と二人で語り合った。
「幸隆殿、貴公が箕輪にいた頃、誰もその言を用いることがなく、
ついに武田家の謀臣となり、
信濃もとうとう切り取られてしまった。この上野も、いずれそうなるであろう。
私ももう、七十を過ぎた。
同じ切り取られるなら、どこの誰とも知れぬものより、
気心のわかる貴公に渡すことが、憂いの中の喜びというものだ…。
さて幸隆殿、ここに吾妻郡に続いた地に、利根郡という地がある。
私の養女の夫で、沼田上野介景康という者がここを治めておる。
色に溺れるような、思慮のない男ではないのだが、
最近、金子美濃守の姪とかいう、素性の知れぬ女に産ませた子を、
平八郎景義と名乗らせ寵愛し、嫡子景久をないがしろにし、
廃嫡せんとする気配が見受けられる。
これでは沼田の家も、長くあるまいよ。
私が盗ってやろうと思っていたのだが…、もう、寿命も尽きるようだ。
かと言って、わが子の力ではまだまだ及ばぬ。
よってこの沼田、貴公に進上しよう。ははは、まあ疑いなさらぬことだ。」
幸隆は形を正して座を降り、業正に深々と頭を下げた。
「拙者、これより沼田において方便を駆使し、必ず奪い取って見せましょう。」
そう言って、箕輪を後にした。
後、この沼田は幸隆の子、昌幸が攻略するのだが、これは業正の教えに従った幸隆が、
十分に布石を打っていたからこそ出来たのだ、ということである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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