佐野天徳寺が、江戸御城において、上杉弾正大弼定勝に向かってこのように語った。
「あなたの御祖父である謙信公の御武勇の威勢は、
兎角の言葉で表現できるものではありませんでした。
私が若き時分には、佐野は謙信公の御旗本でありました。
輝虎公が越後より上州厩橋城に御着になると、二、三日人馬を休め、
それから関東筋へ打って出て、縦横に働かれました。
その、或いは五十日、或いは七十日の間は、
例えば大雷があって夕立が降った時の如く、
敵も城外に打って出ること叶いませんでした。
さて、謙信公が関東での働きを終えられると、厩橋に帰城され、
方々の仕置に十日余りかけられ、その後越後に帰陣されました。
謙信公が猿ヶ京を過ぎて越後路に入ったという情報を聞くと、
関東中の北条方、武田方の敵城は申すに及ばず、
上杉殿旗下の城々も安堵の思いを成し、「最早心易し。」と悦びました。
逆に輝虎越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れて、安心が有りませんでした。」
この座に在った酒井讃岐守忠勝、阿部対馬守重次を始め、
列座の大名、小名はこれを聞き、感じ入られたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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