永禄13年9月初め、武田信玄が北条領である韮山に侵入すると、
北条氏政もこれに対応し兵を出し、これを見て信玄は総人数を三島にまとめ、
駿河に入り建築途中の城の普請を申し付けていた所、
北条も三島の北三十町ばかりに総勢をおろした。
そこで北条は3万7千あまりの人数を50備あまりで立て、
武田は総勢2万3千で21の備を立て押し出した。
信玄は、馬場、山縣、小幡、真田、内藤、朝比奈駿河守、岡部次郎右衛門、原隼人、
その他侍大将を、老若ともに引きつれ、合わせて百四、五十騎あまりを、
味方総軍を5町ほど押し出しておいて、大物身を行った。
そこで信玄は、
「ここで必ず合戦を行い氏政を討ち、明後日には小田原へ入る。」
と仰せ付けた。
しかし馬場はこれを聞き申し上げた。
「敵、味方の防戦の地形をご存じなくては、それはいかがかと思います。」
「それについては皆、心やすく思うように。私の両眼の如き者を既に向かわせた。」
その場に居た上下・老若共に、
信玄公の御両眼というのは誰人かと不審に思っていた所、
敵近くで物見をしてきた二名の者が帰ってきた。
それを見ると、曽根内匠(昌世)と真田喜兵衛(昌幸)の両名であった。
そこで信玄は地形について両名に尋ねると、
「一段の場よしであります。」と申し上げた。
信玄はこれを聞き、
「現在は八つ時(午後2時頃)であり、これから合戦を初めると、日が暮てしまい、北条家の者達にとっておのれの国であるため、山の案内もよく知っている。彼らが夜に紛れて落ち行き、氏政を討ちのがしてしまう事にもなるだろうから、明日の卯の刻(午前6時頃)から合戦を行うべきだろう。」
そう言って、三島へと備を入れた。
しかしその夜、北条氏政は軍勢を、一人も残さず小田原へと引き上げさせた。
この時も信玄は、あらかじめ小田原勢に、夜に紛れて退散する色を見て取っており、
なお以ってその様子かと、曽根内匠、真田喜兵衛両人に自分の観察を教えた。
これより以来、曽根内匠、真田喜兵衛、三枝勘解由左衛門の三人にはこのような事が多く、
「あれなら当然弓矢巧者になるはずだ。」と、諸人が羨んだのも理であろう。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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