ある時、武田信玄公が、このように仰られた。
「世の中には、いろいろな人がある。
分別が充分に有っても、才覚のない人もある。
才覚が有っても、慈悲のない人もある。
慈悲が有っても、人を解っていない人も有る。
人が解らない者の場合、
大身だと、その者が尊敬している人物というのは、十人の内、八人は役に立たない。
という事が多い、
小身の場合は、その親交深い傍輩の悪しき知り合いに近づいてしまう。
このように色々様々に変わって見えるが、結局は、ただ分別が至らぬということだ。
分別さえ能々優れている人は、才覚にも遠慮にも、
人を知るにも功を成すにも、何事につけても良く成すものだ。
このように人間にとって分別の二文字こそ、あらゆる事の基礎であると知り、
朝に志し、ゆうべに思うようにして、分別を良くするべきだ。」
と言われた。
内藤修理正(昌豊)曰く、
「信玄公御錠に、人は分別肝要と仰られた。
これは尤もな事である。
それについて、分別と言うことも、学んでその知恵がつくものだ。」
そう申したところ、小山田彌三郎(信有)が、
「願わくば、その方法を教えて頂きたい。」
としきりに問うてきた。
そこで内藤修理は、
「気遣いという気持ちがあれば、分別にも近寄るであろう。
この気遣いから全ての事に心付て、
自分の至らぬ部分を、分別ある人に習い、
何事を成す場合でも、この心構えをその度に重ねれば、
自分の心得も出来、猶以て工夫、分別、広才の智のある人に近づく事だろう。
そこを考えれば、気遣いというものは、分別のいろはでは無いだろうか。」
そう内藤は、小山田に教えた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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