ある時、長遠寺での振る舞いに、
武田信玄の重臣である、
馬場美濃守、内藤修理正、高坂弾正、山縣三郎兵衛、原隼人佐、小山田弥三郎などの大身衆が、
寄り集まり、一日雑談したことがあった。
ここで、
「山縣三郎兵衛殿は駿河江尻の城代であるので、
遠州浜松の徳川家康の噂をよく聞いておられます。
また内藤殿には関東の安房、佐竹、会津のことを語っていただきたい。
小山田殿は小田原の近くなので北条家のことを語っていただきたい。
高坂殿、馬場美濃守殿は越後、越中までのことを語っていただきたい。」
そう促され、山縣が先ず家康のことを語った。
「徳川家康は今川義元公が討ち死にされてより以降、
ここ10年ほどで国持と成った者ですが、
駿河の全盛期の作法を幼いころから見聞きしたためでしょうか、
信玄公が奉行衆を使って公事(裁判)を裁く様子に、少し似てきているようです。
彼の公事の裁きは、どのような訴訟であっても、
珍しき事は聞きませんが、それは家康が最近になって国持に成ったためでしょう。
我々が感心するような裁きは、あと十年過ぎても無いでしょうね。
ところであの若い家康が申し付けた三人の奉行ですが、
それぞれ三様の性格の者に言いつけたようで、
仏高力・鬼作左・どちへんなしの天野三兵などと、浜松にて落書が立ったそうです。
昔、私が未だ三十ばかりの時、信州更科の奉行に、
まだ若き武藤殿、櫻井殿、今井殿だけは宿老でしたが、今福浄閑は中老でした。
この四人、歳も性格もそれぞれ違った人達を、
信玄公が奉行に申し付けた事に、
この頃の家康が少しずつ似ているのは不思議なことです。」
これに馬場美濃、内藤、高坂らは、
「家康は只者では有りませんね。」
と言い合い、
中に馬場美濃が語ったことは、
「家康の今後の身の上について、私は思うところがある。
この美濃の生命をあと20年ほど生かしてもらい、
この考えが当たるかどうか試したく思うが、20年生きれば80歳に今少しとなる。
金の鎖でつないでも叶わぬことを願ってしまったな。」
そう言って笑った。
これに高坂弾正が、
「家康の今後の身の上を、馬場殿はどのようにお考えなのですか?」
と尋ねた。
すると馬場美濃守、
「おやおや、弾正殿は私よりも先に、それについて考えがあるのでしょう?」
と言った。
ここで小山田弥三郎が手を合わせて、
「御両所の考えを、願わくばお聞かせいただけないでしょうか?」
としきりに所望した。
そこで高坂弾正、
「美濃殿の考えを承りたいので、先ず私が下座から申しましょう。
家康は今、織田信長と二世までの入魂と言っていい関係で、
双方が加勢を助け合い、
それ故に二人の関係は堅固です。
ですが信長は今や、敵は上方十四ヶ国の間に、信長に国を取られていなくても、
あえて信長の分国に攻め込もうと考える武士は一人も有りません。
それ故に、次第に現在のような大身となりました。
一方、家康はいつまでも三河一国、遠州の3分の1だけならば、
終には家康は信長の被官のようになり、信長はそれを喜ぶでしょうが、
仮に明日にでも信玄公が亡くなられた場合、信長は安堵し、
今でこそ家康を、嫡子の城介殿(信忠)と同様に思っていると、
献上された3つの大桃のうち一つを贈る程ですが、
強敵・大敵である信玄公が居なくなれば、信長は家康を殺すでしょう。
もしそうならないのなら、家康の果報というのは少し考えがたいほどです。」
これを聞いて馬場美濃は大誓文を立てて、
「私もそう思う。」
と言った。
内藤修理も同じ意見であると誓文を立てた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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