武田信玄が、北条と駿河国薩タ山で対陣した。
正月18日より4月20日までの、93日間の対陣であり、
その間、日夜競り合いがあった。
武田軍は一番より十番まで、一手切りに足軽を配備していたが、
跡部大炊介(勝資)がこの番に当たっていた日、北条軍の松田の兵に押し立てられ、
二町ばかり敗北し、さらにその場に押し留まった。
このため武田信玄は、馬場美濃(信春)に対処を命じた。
しかしこの時、馬場の兵は僅かに百騎あまりであり、
跡部の三百ばかりの救援には如何かとあって、
彼はこの役割を内藤修理亮(昌豊)に譲ろうとした。
しかし内藤は、
「あのように気負った敵に対するのは、馬場ならではである。」
そう言って辞退したため、結局馬場がこれを請けて現場へと向かった。
現場に向かうに先立って、
馬場は、
「大炊介は早々に引き取るように命じてください。」
と望み、信玄は百足の指物の衆を出して、その通りに申し渡した。
馬場は己の兵を3つに分けると、一手は敵に向かい、
足早に撤退する跡部の軍に付いてくる敵軍を、跡部と交代して引き受けた。
一手は脇より横筋から弓鉄砲にて懸った。
これにて松田の軍2500は悉く崩れた。
最後の一手は後備えにて、この場所の武田の備えを回復し、
さらに敵の二の木戸まで押し込み、引き上げた。
馬場一大の深入りであった。
「面白さに我を忘れてしまったよ。」
これは合戦の後、馬場が内藤に語った言葉である。
信玄は、馬場の戦いを、
「武田の弓矢は今、頂上に登った。」
と評した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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