一昨年の4月28日に、越後の国の上杉輝虎は、小田原の北条殿に頼まれ、
信州の国橋・長沼に出陣した。
その時、信玄公が未だ出馬する前に、
伊那より四郎殿(武田勝頼)が、駆けに駆けつけ、
謙信1万5千あまりの兵に、わずか800の備にて合戦を仕掛けた。
この時、謙信は攻めてきたのが、四郎殿と聞くと、
涙を流しながら、「無類の若者かな。」と褒め、
陣を返し撤退した。
ただし、殿に下がって物見をする侍が2騎残っていたが、
そこに四郎殿は乗り付け、1騎を斬り落とした。
その頃、我々(高坂弾正)もようやく到着し、もう一人の者も斬り落としたので、
さすがの謙信の衆も、撤退の早々に、この両人を捨てて引き下がった。
我らが斬り落とした者は、元来、逍遥軒殿(武田信廉)の被官で、
落合彦介と申す者であった。
そして、それぞれ御舎兄・金丸平三郎殿と、喧嘩相手であった。
四郎殿は、18歳の初陣から当年26歳まで、9年の間に大体の合戦で、
このような先陣の強き働きをなされたのだが、ただあまりに強すぎたので、
今年か来年の間には、討ち死にするだろうと考えていた。
この時、阿部加賀守は、
「今回の陣触れに関しては、今から20日の間に必ず、
三河・遠江に発向し、家康と手切れをするのだから、
このような合戦は無事に帰ってこそ、後に生きるというのに、
武士としては立派ではあるが、
四郎殿はひとしお危ういように思う。」
と述べ、
これを山県三郎兵衛(昌景)が聞き、
「四郎殿にとって、強すぎるのは一つの傷です。
しかもこれは、大将としては大きな傷であり、
結局は弱いことよりも劣るのです。」
と語った。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく

ごきげんよう!