天正9年7月、穴山信君は武田勝頼に異見申し上げた
「信長、家康の勢力は次第に膨張し、遠州の城東郡も、
最早今年3月に家康に取られました。
そのうえ小田原の北条氏政も敵となり、
今後は信長、家康、氏政の勢力が一つとなって我らを攻める以上、
諸方の敵が蜂起すること疑いありません。
そのような状況では、いずれの敵に向かうことも出来ません。
越後と和平を結びましたが、
謙信の時ならば、信長、家康、氏政の3人にも勝つことが出来たでしょうが、
今の景勝は若く、同盟国としては居ないも同然です。
ですので、こちらに良き城をひとつお構えになるべきです。
信玄公の御武勇は尋常成らざるものであったので、
お屋敷のみを構え、甲府四郡の内に御城がありませんでしたが、
それは信玄公の御武勇という強い戒めが在ったため可能であったのです。
ではありますが、信玄公の御内意にも、
かつて北条氏康が生きていた頃、氏康が使いを回して、
上杉輝虎、織田信長、徳川家康と同盟を組んだという話が聞こえてきた時、
駿河の久能、甲州郡内の岩殿、信濃の吾妻の3ヶ所の城を視察されたのは、
もしものときは籠城あるべきとの事からでした。
しかしその時は、上杉謙信が、
「四人が組んで信玄一人を倒しても、
信玄には四人がかりであったと末代まで言われてしまう!」と、
この盟約を破ったため武田家は何事も無くすみました。
また次の年には、北条氏康も他界しました。
ですが、現在は、上杉謙信のような弓取りはどこの大将にもおりません。」
これに武田勝頼も尤もの事だと思い、同年7月より、
甲州韮山に新府城の建設を始めた。
しかしこれが武田家滅亡の元となるとは、後にこそ判った事なのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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