北畠具教 (きたばたけ とものり) | げむおた街道をゆく

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北畠 具教(きたばたけ とものり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。伊勢国司北畠家の第8代当主。



ー 生涯 -
享禄元年(1528年)、第7代当主・北畠晴具の長男として生まれる。
天文6年(1537年)、従五位下侍従に叙任。以後も天文21年(1552年)に参議・左中将に叙任し、天文23年(1554年)に従三位・権中納言に叙位・任官しているなど、朝廷から官位を授かって順風満帆な青年期を過ごした。天文22年(1553年)、父の隠居により家督を相続して第8代当主となる。
弘治元年(1555年)、父・晴具の命により伊勢安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦い、永禄元年(1558年)に次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで勢力を拡大し、永禄5年(1562年)5月5日、長野稙藤と長野藤定が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に握った(具教による暗殺説もある)。また永禄3年(1560年)には、小浜景隆ら志摩国の国人達を援助して九鬼氏の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼして(城主の九鬼浄隆の戦死、弟の九鬼嘉隆は逃亡)志摩国での支配体制を固めた。さらに『勢州軍記』の「秋山謀叛事」によれば、永禄初年に大和国宇陀郡の国人領主・秋山教家が三好氏の婿[2]として権勢を奮い、具教の命に従わなかったため、具教は教家の居城の神楽岡城を攻め、教家の父を人質に取ったという。このように具教は北畠家の支配範囲を順調に広げていき、北畠家の最盛期を築き上げた。
永禄6年(1563年)、嫡男の具房に家督を譲って隠居する。しかし実権は依然として具教が握っていたようである。
ところが、永禄11年(1568年)から尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。上洛を目論む信長は、北畠氏がその障害になると考え、永禄12年(1569年)、侵攻を開始した。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末、遂に降伏した。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる。具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が信雄(茶筅丸)に嫁ぐこととなった。
その後は元亀元年(1570年)5月に出家して天覚[3]、更に不智斎と号し、三瀬谷(現在の三重県多気郡大台町)に移ったものの、少なくとも天正元年(1573年)9月迄は具豊(信雄)に実権を渡しておらず、天正3年(1575年)6月の家督譲与まで具教、具房奉公人(教兼、房兼)の文書発給が続いている[4]。また、天正3年(1575年)、具教は隠居城として伊賀国丸山城の築城を決め、同地域の土豪を説得、天正4年(1576年)正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。
天正4年(1576年)11月25日、信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代)ら)たちの襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された。享年49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害され、これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。
なお具教の首級は、加留左京進の家臣である伊東重内らにより運び出されたが、変に気付き駆け付けた芝山秀時、大宮多気丸らに奪い返され、秀時の父である芝山秀定により御所尾山に埋葬された[3]。



ー 人物・逸話 -
具教は剣術を好み、修行の旅をする剣客を保護・援助していた。自身も塚原卜伝に剣を学び、奥義である一の太刀を伝授されたといわれる剣豪であり、他にも上泉信綱からも剣を学んだ。具教は、領土が隣接する柳生宗厳とは剣を通じて親交があり、上泉信綱に彼や宝蔵院胤栄を紹介するなど、剣豪たちの交流に一役買っていたといわれる。織田氏の刺客に襲撃された際も、太刀を手に19人の敵兵を斬り殺し100人に手傷を負わせたという[5](刀の刃が腹心の佐々木四郎左衛門尉により潰されており、抵抗できずに斬殺されたとも[1])。
暗殺された20年後、上三瀬の住人が具教の菩提を弔うために現在の大台町にある北畠神社の場所に国司堂を建てたとされる[6]。


以上、Wikiより。



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