北畠具房 (きたばたけ ともふさ) | げむおた街道をゆく

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北畠 具房(きたばたけ ともふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。伊勢国司北畠家の第9代当主。



ー 生涯 -
天文16年(1547年)、第8代当主・北畠具教の嫡男[1]として生まれる。
永禄6年(1563年)、父・具教が隠居し家督を相続したが、永禄12年(1569年)に父と共に織田信長に降伏し、信長の次男・茶筅丸(具豊)(のちの織田信雄)を養嗣子として迎えざるを得なくなった。天正3年(1575年)に具豊が北畠家の家督を継ぐと、中の御所[4]と敬称されるようになる。
天正4年(1576年)、父・具教が信長・信意(具豊改め)父子によって殺害される(三瀬の変)と、具房は幽閉の身となり、その身柄を滝川一益に預けられて安濃郡河内に3年間幽閉された[1]。
後に幽閉は解かれ、名を信雅(のぶまさ)に改めた[2]。その直後の天正8年(1580年)1月5日に死去。享年34[5]。



ー 人物・逸話 -
かなりの肥満体であり、馬に乗ることも出来なかったといわれる。父・具教と大河内城に篭城した際には、敵方の織田軍から「大腹御所の餅喰らい」とからかわれている。このような具房に、塚原卜伝の高弟・具教は不満を感じていたらしく、『勢州軍記』は具房は父から疎外されていたと記している。
昌教という落胤があったとされており、昌教の名は北畠氏の系図でも確認できる。ただし具房には嗣子が無く、そのために中院通勝の次男・親顕を養子に迎えたとされていることから、昌教の実在には疑問もある。
丹波柏原藩士系図に拠ると具房には一女があり、信雄に養われて織田高長の寵臣中山正就に嫁いで一男一女を生んだとされる。


以上、Wikiより。



北畠具房