北原兼孝 (きたはら かねたか) | げむおた街道をゆく

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北原 兼孝(きたはら かねたか、? - 永禄5年1月22日(1562年2月25日))は戦国時代の日向国北原氏の庶流で、第11代当主北原久兼の子。官位は民部少輔。



ー 生涯 -
北原氏11代北原久兼の次男として誕生。飯野城主として真幸院の飯野方面(加久藤盆地側)を治めた。病的なまでの一向宗門徒だったようで、領民に対し「一向宗とならねば打ち殺す」として入信を強要したと『飯野郷土史』に記される。
天文2年(1535年)、兼孝は家督争いが勃発した伊東氏に対し、伊東義祐の援軍と称して綾に兵3,000を布陣、綾城か三俣院高城(日和城)のいずれかの割譲を迫り、義祐に高城の割譲を約束させている(但し、高城の城主落合兼佳が北郷氏に内応したため、結局は北郷氏の城となる)。
その後も、北郷氏との戦いや、縁戚である伊東氏の支援などに出陣しているが、天文13年(1546年)3月には島津貴久の依頼を受け、島津氏宗家に叛乱し薩州家に与した肝付兼演の加治木城を攻めるのに加勢している。
永禄元年(1558年)、甥で北原氏13代当主の兼守が病死する。兼守は遺言で、兼孝の男子に自らの娘を娶せて後を継がせるとしていたが、その娘が夭折したことで家督問題が生じ、それに伊東義祐が介入してくる。義祐は北原庶流の馬関田右衛門佐を後継に推し、その反対派は兼孝を推したのであるが、翌永禄2年(1559年)3月17日に義祐が反対派を都於郡城にて詰問するとして呼び出し、その帰途を待ち伏せて粛清したことで、北原家督は右衛門佐が継ぐことになる。それにより、北原氏は事実上伊東氏に乗っ取られた。
伊東氏の凶刃は、やがて兼孝にも及び、永禄5年(1562年)北原旧臣の平良兼賢と伊東家臣の長倉祐政により飯野城より誘き出されて殺害された(謀殺か討ち死にかは不詳)。また兼孝の男子も、狗留孫峡に在ったところを大河平氏により殺害された。


以上、Wikiより。



北原兼孝