1.デカルトってどんな人?
例えば三段階法(演繹法)の否定がある
前提〜全ての動物は死ぬ(一般命題)
↓
人は動物である。
↓
結論〜全ての人は死ぬ
これはアリストテレス的な経験論に基づく倫理学である。
既に想定されている一般命題を疑うことなく、ここからスタートして結論を出している。
自分の知らないことについて何も判断せずに話しているだけで、デカルトはこういった考え方を否定した。
2.概要
デカルトの思想(とその著書)は大きく分けて次の3つに分類できる。
1.認識論と形而上学
『省察』
『哲学の原理』第1部
『方法序論』第4部
2.自然論と宇宙論
『哲学の原理』第2〜4部
『方法序論』第5〜6部
3.人間論と道徳論
『情念論』
『方法序論』第5部
この1.認識論と形而上学がもっとも有名で、我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)はここでの話となる。『省察』に書いてある内容であり、デカルトと言えば世間一般的にはこのあたりなので、今回の投稿も省察の内容を中心に要約する。
※形而上学とは簡単に言うと精神や魂といったものを扱う学問。反対に形而下とは物質や身体について。
3.考え方のベース
省察の内容に入る前にデカルトの基本的なスタンスに触れる。初期の著書『方法序論』の前半にその記載がある。
1.デカルトの目指すところ
現実世界の政治体制や組織の革命的改変は是認しないのであるが、みずからの精神の全面的な自己改革を企て、それによって諸学問の体系的改革を志すのである。
2.そのための手段
これが有名な「四法則」であり、以下の手順を踏むことがあらゆる事柄の認識に達するための真の方法とする。
1.明証
疑う理由が少しでもあるものは判断のうにちとりいれてはならない
2.分析
困難に面してそれを一挙に解こうするではなく、小部分に分割して考える
3.総合
分割によって得られた単純かつ容易なものから順序に従ってそれを複合する。
4.枚挙
分析され総合された知識の連結の全体的把握を行う。
1の明証については、「わたしが明証的に真であると認めないものはけっしていかなるものも真として受け入れないこと」としている。
→これが『省察』の普遍的懐疑に繋がる
4.『省察』の要約
省察は第1省察〜第6省察の6部構成で、大雑把に言ってしまうと、「普遍的懐疑からの自我」と「神の存在証明」の2つがメインとなる。
1.普遍的懐疑
普遍的懐疑とは少しでも疑いを想定しうるものは絶対的に偽として投げ捨てること
感覚に基づく認識と身体感覚の全体を真理認識の根拠にはならないと否定する。
見ているものも場所によっては形を変える。また、触っていても夢なのか、現実なのか定かではない。これは、生まれたときから感覚が示すものを事物の本質と思い込んでしまったことに起因している。
さらに、絶対に普遍と思われる数論(2+3=5)、幾何学(四角形は4辺)すらも懐疑の対象とした。
これは「欺く神」(あるいは悪い神)が、誤るように仕向けたかもしれないという形而上学的想定のもとに懐疑の対象とした。
ということになる。
ここまでが、第1省察の内容で、次に実は確かに存在しているものがあるという第2省察に入る。
2.我思う故に我あり
デカルトは「その存在について極めて少しでも疑い得る一切は存在しないと仮定するが、自身はしかし存在せざるを得ないことに気づくのである」としている。
何も確実なものはないと考えている私は確かに存在するという考え方が
「我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」なのである。
この第2省察の途中まで理解すれば世間的には十分な気もする笑
話は以下のように続く。
コギト・エルゴ・スムのポイントは2つ
①この「私の存在」は、普遍的懐疑の結果として得られるものであり、両者は不可分。
②普遍的命題から形式的に演繹されたのではない。
演繹は普遍的命題を前提としている点でデカルトの普遍的懐疑から得られる直感的知識は、(従来のやり方である)論理法則による知識よりも確実といえる。
これは(物体は懐疑の対象であるため
精神(心)の方が、身体(物体)よりも先に明証的かつ、確実なものとするものである。
→アリストテレス主義の経験論(身体で見たり触ったり)の認識論を排して、精神は感覚や身体と独立に機能し(心身二元論)、精神自身に観念がある。
と主張しているのである。
このあたりが近代哲学の祖とされた所以っぽい。
3.神の存在証明
第1省察で欺く神の話をしたが、これまでの話も踏まえて、次の第3省察(及び第5省察)では神の存在証明の話になってくる。
以下のとおり3つ証明で神の存在を証明しようとするものである。
第1の存在証明
外から来たと思われる外来観念には「私」自身によっては形成できないものがある。
その観念とは具体的に
①無限
「私」は有限の実態である。有限の実態は無限実態の観念内容は形成できない。
人間は現実無限の観念が先に与えられてはじめて、完全性を増大させようとする。
②完全
「私は疑う」とは、「私は欲する」と解釈でき、私は完全な存在ではないことを意味する。より完全な存在の観念が先にあることにほかならない。
以上から、
①②を外から刻印した存在として神の存在を帰結するのである。
第2の存在証明
神の観念を持つ「私」が存在するということは神もまた存在する。
太陽が消えた途端に光も消える。光があるということは太陽もまた存在するという理屈。
デカルトは自らの存在の原因である「自己原因」としての神として証明を試みた。
「私」が継続して存在するためには、その存在を保持する力が必要であり、それは神をおいて他にない。
第3の存在証明(第5省察の内容)
第1と2の存在証明から、神の観念が示す「完全な存在者」という神の本性には常に「存在する」ということが不可分に属している。
デカルトは本質と存在は不可分ということを説き、したがって神は存在するとしている。
以上3つの存在証明からデカルトは神の存在を説いたが、実はここで重要な結論が導かれる。
それは「欺く神は存在しない」ということ。
神は完全なる存在者であり、欺く神などは存在せず(そんなのは神ではない)、誤った数学的、幾何学的普遍性を提示することなどない。
したがって絶対に普遍と思われる数論(2+3=5)、幾何学(四角形は4辺)は正しいということが、ここまで来てやっと判明する。
5.教訓(私見です)
〈例〉
インスタグラマーが言ってた「円安が進行し、日本円はもうだめ」(一般命題)
↓
円で持っていると資産が現象する
↓
円を売ってドルを買う(結論)
「〇〇さんが言ったから」「〇〇のオススメ」「〇〇すべき」「〇〇の助言」など、それが間違っていると疑うことなく、自分の命題として扱っている可能性がある。