個人の欲と組織への忠誠 そして個人の良心 アンチヒーロー | 残念おじさんの不器用な挑戦

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おはようございます。

 

個人の欲と

組織への忠誠

個人の良心

 

アンチヒーローでも描かれていましたよね。

 

若いころは、

個人の欲も、未成熟

個人の良心は、非常に単純で美しく、

組織、社会への忠誠、信頼も期待と共に存在する。(今の若い人はないのかな。)

 

年齢を重ねて思うのが、

個人の欲や、組織への忠誠を超える個人の良心を持ち続けることは非常に難しいと思うこと。

 

自分の立場をまもるため。

自分の出世のため。

自分の安定のため。

組織の指示を受け入れ続け、

感覚がマヒして

それを正当化する思考になる。

 

「欲」が「正しさ」に変化する。

 

それに気づいて

それに反抗して

孤高の存在をきどっても

自分もその空気を吸い続け、

小さな妥協を繰り替えし、

染まっていく。

 

明確な個人の良心の指針

個人の欲、組織への忠誠を超える正しさの指針がない社会では

個人の正しさを担保する方法がわからなくなる。

正しさの担保が、家族や愛する人になるかもしれない。

しかし時にそれが、小さな妥協や悪へ染まることを許し、

その感覚を麻痺させてしまう。

 

人は利害関係から法的に解放される年齢が皆やってくる。

人は、誰もが出世、我欲のみで生きていきるわけではないので、

運よく、悪に染まり切らない生き方をできる人たちもいる。

我欲を振り回すことを良し!としない人はまだ多い。

 

本当は、

個人の欲だけが、

組織や、組織の構造だけが悪いのではなく、

それを相対化して、

それから適切な距離を与えてくれる

思考が必要だと思う。

 

私には、それが仏教入門だと思う。(若い頃は多重帰属的価値観を持つこと)

だれもが出家はできない。

しかし人間は自己愛に振り回される存在。

自己愛同士の関係に愛という安らぎを見つけ、時にそれが苦しみの源泉にもなる。

 

と私の妄想

 

個人の欲、会社への忠誠や社会との適切な距離の取り方

それがメンタル的には仏教を学ぶこと。

世俗における仕事への対応として、副業をする。(異なる価値観を学ぶ)

人への勝手な期待、自分の身勝手な欲から適切な距離をとった政治・社会・経済等への関心。

(社会を構成する機能にはたくさんの大切なものがあるので、「等」をつかいました。)

 

個人の欲は危険だ。美しいものを守るために他者の犠牲を顧みない感性を身に着けてしまう。

「大切な人を守るためなら人を殺す。」 だがそれだけではだめだ。

組織への忠誠は出世への一つの手段。危険だ。

無自覚・自覚的を問わず、「生きるとはこのようなもの」と考え、指示を受け入れることの意味。

(エルサレムのアイヒマ・日本軍の組織論)

それが現実なんだといえますか。あなたの娘さんに。

 

明墨弁護士はいう

「自分が気づかないうちに、人は、自分の物差しで人を裁き、罰を与える。」

なぜなら「人は、人を裁くことが快感だから」

 

私は強すぎる自分の思いが、人を裁くことに気づいていた。

人への期待値を下げ、人に自分の意見を押し付けなくなった今でも、

「人に期待しすぎてはダメだ」と人を裁いている。(一番小さい悪なのかと。)

(仏教的思考では概念は捨てよ = 判断は捨てよ。決めつけを捨てよ)

 

私は、皆が我慢することができる苦しみの輪廻の構造を見ている。

私には、耐えることのできない苦しみに感じることがあるから。

 

できる限り、自分の主観を排したいと思い自分の心をみつめ、その弱さに嫌気がさしている。

他人への期待同様、自分への期待も最低限にして、真理を見たいと思う。

勿論私は、自分が生きることに執着しているので、全く心の成長がすすんでいないが。

 

地獄にひきずりおろし、あなたを見張り続けます。

私の場合、他人ではなく、自分の心を対象に。

自分の悪がおぼろげながら見えてきたから。

 

お釈迦様はすごい。

教えが凄いこともあるが、

それを実践できたことが、私にはありえないこと。

しかしその道に、よりよい自分があると思っている。