私は子会社で働いています。
とてもぬるい会社です。
自分たちで営業をしていません。
与えられる仕事をこなすことが仕事です。
以下は悪口ではありませんし、正しい意見でもありません。
妄想です。
ここに集まる人たちを一言でいうと、
人生で一番厳しいこと(自分の力でお金を稼ぐ)ことから目を背ける人の集まりと感じることです。
これは悪いことではありません。
資本主義が発達して、だれもがご飯を食べることの責任を取る必要がない社会になる。
会社は、そのトップが責任をとる。(本当は、その責任は有限ですが。)
私は、生きる本質の一つに、自分で仕事を見つけ、稼ぐという一番原始的なモデルがあると考えています。
これは、今のように言語化される以前の未成熟な自分の能力でも、
「もっとおいしいものを食べたい!」とか
「親は子供のためにお金をだすべき!」とか
「会社は、社員のことをもっと考えるべきだ!」とか
「苦には、国民の生活を楽にすべき!」という他責に近い発想の中には、
本来仕事をして、稼ぐことの責任(不条理)は、各個人の選択にあることを思いださせるものとして僕の中では機能しています。
私の周りの人だけかわかりませんが、
このモデルが全くない方がいるように思えます。
生きる上で一番厳しいこと。それは働き、お金を稼ぐこと。
その責任の放棄度合いで、その他の「楽」を得る。
「楽」を否定しているわけではありません。
「苦」を見つめなくてよいのかと感じてしまうことが多いです。
人間「苦」を見つめることは苦しい。
だから考えないことも可能。
それは奴隷のような人生では。
与えられた仕事を真面目にやる。
その範囲内で楽しむような人生
勿論これは偏った見方(極論)である。
人間は完璧ではないから、
個人では自分の人生の責任を自分で受けとめきれないから
集団になり、安全圏を作り、生活を楽にする。
このことを理解しながら
自分のできる範囲で努力を続け
自分のポジションにしがみつかず、
必要時にポジションを明け渡す。
これも極論です。
この両極を意識しつつ、可能な限り努力を続け、未来に備える。
私には、当然と思える認識は、私の会社にはなさそうです。
ただただ「浅い何か」でおおわれている組織。
でも悪い仕組みではない。
「浅さ」考えずに生きることができる方には大切な場所。
誰もが「深み」を目指す必要はない。
平均的な「浅さ」が正解の組織。
自分は、そこの一員だが、価値観を受け入れるのは難しい。
ここで「悪い人」になることはしませんが、「いい人」にもなりません。
人の認識、価値判断は、「浅さ、深さ」で一変(反転)すると思う。
平時に「浅さ」が正義でも、その度が過ぎるとその組織は崩壊する。
その兆候は、
「やりがいのなさ」
「将来が描けない」
「頑張ることに意味がない」
「苦しみ」を見つめ、克服するために努力することは結構大事だと思う。。。
「優しさ」が「甘え」に
「苦しみ」「ストレス」が「悪」に。
「考えない」が「正しさ」に。
(もちろん考えればよいわけではない。妄想がいきすぎ、人に迷惑をかけるなら、「思考」は一度抑えたほうがよい。)
できることは、他人への説教ではなく、自分を磨くこと。自分の心がけを行為で示すことだけ。
求められない限り、自分の正義を話してはならない。(必要はない!より強め)
人生はそもそも不条理である。
不条理だからといって、私利私欲で生きるのではなく、公益が先で、私益があと。
私は、自分の考えで、自分の人生を生きたいと考えたため、「私益」を優先。
つまりダメ人間。
そのことを意識しているので、人を傷つけることを最低限にしたい。