5月23日(金),多賀城南門(宮城県多賀城市市川字田屋場),多賀城碑(同),多賀城跡あやめ園(多賀城市市川字立石,字田屋場)に行って来ました。写真で報告します。
JR東北本線・国府多賀城駅(多賀城市浮島一丁目)です。

多賀城南門です。南門は多賀城外郭に設けられ,東北の経営の中心であった多賀城の入口にあたる重要な施設で,8世紀中頃のものとされていたものです。復元工事が完成し,令和7年4月に公開されました。


南門北側です。

南門北側から政庁跡(多賀城市市川字城前)方面を望みます。

多賀城碑です。この碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ,江戸時代初めの発見当初から歌枕「壺碑」と結びついて広く世に知られていました。碑の最後に天平宝字6年12月1日と碑の建立年月日が刻まれています。ユリウス暦の762年12月20日です。令和6年8月27日に国宝(古文書)に指定されました。



多賀城跡あやめ園です。カキツバタ(アヤメ科アヤメ属カキツバタ)です。外側の花びらに白色の筋があります。



本アヤメ(アヤメ科アヤメ属アヤメ)です。外側の花びらに網目模様があります。見頃を迎えています。「第35回多賀城跡あやめまつり」は6月14日(土)から20日(金)まで開催されます。その頃ハナショウブ(アヤメ科アヤメ属ノハナショウブの園芸種)が見頃を迎えます。ハナショウブは外側の花びらに黄色の筋があります。







多賀城跡ガイダンス施設(多賀城市市川字立石)です。特別史跡多賀城跡附寺跡を学習することや歴史の学びを通じて文化財の価値を高め,市内外に魅力を発信するための施設です。

なお,縄文時代から東北地方以北にはアイヌが居住しており,奈良・平安時代に大和朝廷が東北地方のアイヌを「蝦夷(えみし)」として制服したもので,多賀城はアイヌ侵略の前線基地であったと主張している人がいます。大和朝廷が蝦夷を征服したのは史実ですが,蝦夷はアイヌではありません。そもそも,アイヌは単純に(北海道などの)縄文人の子孫というわけではなく,オホーツク文化人の遺伝的な影響を強く受け取ることで13世紀頃成立したと考えられているのです(国立博物館長・篠田謙一「人類の起源」など)。つまり,アイヌはオホーツク人と(北海道などの)縄文人の子孫の混血です。従って,アイヌが先住民族であり,多賀城がアイヌ侵略の前線基地であったなどという主張はでっち上げで,日本人の間に分断を持ち込むトンデモ説です。十分に警戒する必要があります。