商工会議所青年部鹽竈神社参拝 | 哲風のBLOG

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 「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」を目指している宮城県塩竈市に鎮座する志波彦神社鹽竈神社の神事,四季の移り変わりや,仙台,塩竈,多賀城,松島など宮城県内各地の名所,旧跡,行事などを紹介します。

 10月9日(土)に開催された日本商工会議所青年部第40回東北ブロック大会宮城しおがま大会参加者の鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)参拝です。写真で報告します。

 

 午後3時,鹽竈神社東参道(裏坂)下を出発します。まず,「國幣中社鹽竈神社裏坂道路改修工事記念碑」です。この碑文中に,「文政天保の頃,中井新三郎の提唱により裏坂の改修が行われた」と記されています。正確には,天保3年(1832年)のことです。詳しくは,NPOみなとしほがま・藤橋經雄氏の「裏坂と道路改修記念碑」を御覧ください。

 

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 東参道脇にある文珠院取次の燈籠です。奉納されたのは元治(げんじ)元年(1864年)7月10日です。取次の文珠院は,鹽竈神社の別当寺であった法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺,別名「一森山鹽竈寺」,真言宗)の12あった脇院の一つです。東参道は,明治3年に廃寺となるまで法蓮寺僧侶の鹽竈神社への「通勤路」でした。 

 

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 志波彦神社鳥居です。

 

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 志波彦神社鹽竈神社は,志波彦神社,鹽竈神社別宮,鹽竈神社左右宮の順に参拝するのが正式であるとされています。志波彦神社は,「延喜式神名帳」(延長5年(927年))に記載されている名神大社です(「延喜式内名神大社」と言います。)。鹽竈神社は「弘仁式主税帳」(弘仁11年(820年))及び「延喜式主税帳」に国家の正税(しょうぜい,租稲)から1万束の祭祀料を受ける神社として記載されているのですが,何故か「延喜式神名帳」には記載されていません(「式外社」と言います。)。宮城郡岩切村(現・仙台市宮城野区岩切)に鎮座していた志波彦神社は,明治4年5月14日(1871年7月1日)太政官布告「官社以下定額,神官職制等規則」により国幣中社に列せられたものの,長い歴史の中で境内は狭隘で祭典の執行にも差し障るようになっていたことから,明治7年12月24日鹽竈神社別宮へ遷祀しました。鹽竈神社はそれまで官国幣社等のいずれにも列せられていませんでしたが,国幣中社・志波彦神社が鹽竈神社境内に遷祀されることになったことから,鹽竈神社も国幣中社に列せられたのです(明治7年12月23日国幣中社列格奉告祭斎行)。わかりやすく言えば,志波彦神社のおかげで鹽竈神社の格が上がったということになります。志波彦神社鹽竈神社神職が「志波彦神社の方が少し格が上なのです。」と説明しているのは,こういうことでしょう。

 

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 「推定樹齢276年」のエドヒガン(江戸彼岸)です。何故そこまで細かく言えるのでしょうか。鹽竈神社七曲坂入口の四方跡(よもせき)公園(塩竈市西町)に「奉植一宮御境内櫻木五百株」の碑があるからです。延享2年3月10日(1745年4月11日),桃生郡深谷北村(現・石巻市北村)の「月参講中九十四人」が鹽竈神社及びその周辺に桜木500本を植樹した記念碑です。そのうちの1本がこれであると言われています。志波彦神社鹽竈神社境内で最も古いサクラ(桜)です。

 

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 鹽竈神社馬場です。7月第2日曜日,ここで流鏑馬神事が斎行されます。ただし,令和2年,3年は新型コロナウイルス(中共・武漢ウイルス)感染拡大防止のため,中止されました。流鏑馬神事は,鎌倉時代初期,陸奥國留守職・伊澤家景が三頭の馬を献じて流鏑馬を行い,部下の士気を高めたのが始まりと伝えられています。鹽竈神社別宮・左宮・右宮それぞれに一頭の馬を立て,三人の騎手が三つの的を次々と射抜いて行きます。矢が的中することは除災招福の瑞祥とされています。

 

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 鹽竈神社表参道(表坂)上から表参道を望みます。表参道は202段の急な階段です。神輿(重さ約1t)はここを下り,上ります。国指定重要文化財・表参道石鳥居の柱に,「鹽竈宮大明神奉献建石華表一基」,「寛文三年癸卯七月十日松平龜千代」の刻銘があります。寛文3年(1663年)仙台藩第4代藩主・伊達綱村の奉献です。伊達氏は将軍・徳川氏から「松平」を与えられ,初代藩主・政宗以来代々の藩主は「松平陸奥守」を称していましたので,「松平龜千代」と刻したのでしょう。綱村は当時わずか5歳です(当時は,幼名の「龜(亀)千代」)。

 なお,表参道石鳥居以外にも,建物14棟,太刀2振,棟札11枚が国指定重要文化財になっています。

 

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 塩竈市の花(市花)・ハマギク(浜菊)です。

 

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 鹽竈神社随身門です。「随身」(ずいじん)とは,本来天皇・貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことで,藤原道長の随身・下毛野公時(しもつけののきんとき)が有名です。金太郎のモデルで,近衛府官人「第一の者」と言われていたとのことです。随身姿の守護神像を左右に安置した神社の門を「随身門」と言います。

 

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 菊の御紋(十六弁八重表菊紋)です。明治2年太政官布告第195号によって天皇の紋章とされました。

 

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 推定樹齢800年の御神木杉です。かつては,御神木杉の西側に「文治の燈籠」があったようです。

 

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 鹽竈神社四足門(よつあしもん)前の延享4年(1747年)8月吉日奉納の石造狛犬です。出川哲朗さんに似ていると言われています。いや,出川さんがこの狛犬に似ているのでしょう(笑)。通称「仙台狛犬」と言い,有名です。志波彦神社鹽竈神社第14代宮司・押木耿介「鹽竈神社」(学生社)には「グロテスクな顔が捨てがたい。」とあります。

 

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 鹽竈神社四足門(国指定重要文化財としての名称は,単に「門」です。しかし,これでは他の門と区別できませんので,四足門,四脚門,唐門などと呼ばれています。)です。

 

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 鹽竈神社別宮拝殿です。別宮本殿に鹽竈神社の主祭神である鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)が祀られています。

 

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 鹽竈神社左右宮拝殿です。拝殿は一つですが,本殿は二つです。左宮本殿に武甕槌神(たけみかづちのかみ,鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)の主祭神),右宮本殿に経津主神(ふつぬしのかみ,香取神宮(千葉県香取市香取)の主祭神)が祀られています。

 

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 鹽竈神社左右宮拝殿階段擬宝珠(ぎぼし)にある刻銘です。「鹽竈宮造替 大檀主 従四位下行左近衛權少将兼陸奥守藤原朝臣吉村…寶永元甲申歳九月十日…」とあります。「藤原吉村」とは,仙台藩第5代藩主・伊達吉村のことです。伊達氏は藤原北家山蔭(やまかげ)流と称していますので,姓は藤原というわけです。寶(宝)永元年(1704年)9月10日,仮殿から新殿(現社殿)に遷座しました。

 

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 「文治の燈籠」です。左右宮拝殿の前(東側)にあります。松尾芭蕉は河合曾良とともに,元禄2年5月9日(1689年6月25日)鹽竈神社に参拝しました。その際,「文治の燈籠」を見学しています。そして,「神前に古き宝燈有。鉄の戸びらの面に文治三年(1187年)和泉三郎寄進と有。五百年来の俤(おもかげ)今目の前にうかびて,そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士也。佳命今に至りて,慕はずといふ事なし。誠人能道を勤,義を守るべし。名もまた是にしたがふと云り。」(「おくのほそ道」)と,忠衡を絶賛しています。忠衡は父・藤原秀衡(奥州藤原氏第3代)の遺言である源義経保護を強く主張して,その取扱いを巡って兄・泰衡(奥州藤原氏第4代)と対立し,誅殺されました。

 現在の「文治の燈籠」は,文化財指定されていませんので,新しいものと考えるのが自然でしょう。芭蕉らが来た頃の「文治の燈籠」とは屋根の形や飾りが違い,当時は石の柵もありませんでした。石の柵が設置されたのは享和3年(1803年)のことで,仙台の俳人を中心として44句の俳句が刻まれています。「鶯の 朝読みいそく 寝ぼほけ哉 八才 与三郎」というのもあります。

 

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 「林子平考案日時計」(複製)です。宮城県内最古の日時計で,学友である藤塚知明が寛政4年(1792年)に奉献したものです。石盤上にはローマ数字を刻し,「紅毛製大東日」と刻す異国風の珍しい日時計です。本物は鹽竈神社博物館内にあります。子平は仙台藩医の弟で,「三国通覧図説」,「海国兵談」などの著作で,海防の必要性を説きました。まったく正しい主張であったにもかかわらず,頭の固い朱子学(儒教の一派)信奉者で世界を見ようとしない老中・松平定信らによって弾圧(両著とも発禁,「海国兵談」は版木没収,子平は蟄居処分)され,失意のうちに死去しました。子平は蟄居中,その心境を「親も無し 妻無し子無し 版木無し 金も無けれど 死にたくも無し」と嘆き,自ら六無斎(ろくむさい)と号しました。現代でも国家(国民とその政府)にとって最も重要な国防がまったくわかっていない人(政治家を含む日本国民)が多過ぎます。

 

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 文化燈籠(銅鉄合成燈籠)です。文化6年(1809年)に仙台藩第9代藩主・伊達周宗(ちかむね,「かねむね」と読む説もあります。)が,文化5年(1808年)江戸幕府から命じられた蝦夷地警護(択捉,国後,箱館に約2千人を派兵)の凱旋記念に奉納したもので,銅鉄合成の動物,花鳥をはめ込み,精巧を極めています。昭和51年10月1日塩竈市有形文化財に指定されました。

 伊達氏所縁(ゆかり)のものであることを示すのが家紋です。伊達家伯記念會(会長は,伊達氏宗家第34世・仙台藩主家第18代当主の伊達泰宗氏です。)のHPには8つの家紋が載っていますが,もっと多いとの説もあります。この文化燈籠には2つの家紋が刻まれています。まず,竪三引両(たてみつひきりょう)です。伊達氏宗家第1世・朝宗が文治5年(1189年)源頼朝から拝領した幕紋二引両(まくもんふたつひきりょう)を,後代竪三引両に改め輪郭に入れて図案化し定紋としたもので,伊達氏の家紋では最も古いものです。

 次に,竹に雀です。天文11年(1542年)第14世・稙宗の息子・時宗丸(後の実元,実元の子が「伊達三傑」の一人・「武の成実」と言われた成実です。)が越後守護職・上杉定実の養子に入ることになり,その婿引出物として贈られたもので,第15世・晴宗の代から伊達氏累代の定紋(仙台笹)となりました。しかし,天文の乱(天文11年から17年まで(1542年~48年)稙宗・晴宗の内紛に伴って発生した一連の争乱)によって入嗣は立ち消えとなったのですから,本来この家紋は返還しなければならなかったはずです。

 

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 国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」です。青いタグが付いています。国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」と国指定天然記念物でない「鹽竈ザクラ」は,見た目はまったく同じです。カスミザクラ(霞桜)の八重咲きがスイショウザクラ(水晶桜)で,鹽竈ザクラは水晶桜の突然変異であると考えられていますが,雌蕊(めしべ)が葉化してしまうため,接ぎ木で増やします。その接ぎ木の台木が異なるのです。国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」は,台木がマザクラ(真桜)です。国指定天然記念物でない「鹽竈ザクラ」は,台木がヤマザクラ(山桜)です。山桜への接ぎ木を繰り返すと,花が山桜化してしまい,「まり(毬、鞠)のような八重桜」でなくなってしまうと言われています。また,「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」ですので,志波彦神社鹽竈神社境内にあるものに限られます。境内に27本あるようです。ただし,立入禁止区域内にあるものがあり,すべてを確認することはできません。

 

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 「伊達綱村公顕彰碑」です。鹽竈神社を深く崇敬していた綱村は,寛文13年(1673年)の御舟入堀(おふないりぼり)の完成などにより経済情勢が悪化していた門前町塩竈を救うため,貞享2年(1685年)に9箇条からなる塩竈振興令を発しました。これが「貞享特令」と呼ばれるもので,年250両に及ぶ金子の下賜,年貢の免除,商売の荷物や海産物を積んだ船,仙台藩領や他領の材木を積んだ船は必ず塩竈へ入港するよう定めたことなど,異例と言える内容で,衰退していた塩竈が息を吹き返す契機となったのです。御舟入堀は,米中心の輸送路として江戸幕末までその役割を果たすこととなりました。

 

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 鹽竈神社二之鳥居です。鹽竈神社東参道,七曲坂上にあります。寛政9年(1797年)に造立されたもののようです。扁額は神社本庁統理・徳川宗敬(むねよし,水戸徳川家第12代・篤敬の二男,一橋徳川家第11代・達道の養子,一橋徳川家第12代当主)が揮毫したもので,平成21年に鋳物で更新されたとのことです。

 

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 バス駐車場に到着です。参拝・見学でちょうど1時間でした。

 

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