塩竈巡り | 哲風のBLOG

哲風のBLOG

 「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」を目指している宮城県塩竈市に鎮座する志波彦神社鹽竈神社の神事,四季の移り変わりや,仙台,塩竈,多賀城,松島など宮城県内各地の名所,旧跡,行事などを紹介します。

 10月12日(火),志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)及びその門前町を巡る「塩竈巡り」が開催されました。雨天で鹽竈神社表参道(表坂)を下るのは危険なため,予定のコースを大幅に変更しました。写真で報告します。

 なお,写真撮影がほとんどできなかったため,大部分の写真はこれまでにこのBLOGで使用したものです。御了承願います。

 

 鹽竈神社東参道(裏坂)下の「鹽竈神社三之鳥居」です。この付近に午後1時50分に集合しました。

  「志波彦神社 鹽竈神社」の扁額は,竹田宮恒久王(作家・竹田恒泰氏は,曾孫(男系男子)です。)の揮毫です。右(東側)の柱には,鈴木省三の漢詩「台駕巡奥 親茲臨登 山色高霽 水光遠澄 無前盛事 神感有應 謹獻華表 永紀瑞徴」が掘られています。「天皇の駕籠が奥州を巡り,茲(ここ)に親しく神社に登臨された。山の色は高く霽(はれや)か,水の色は遠く澄んでいる。前にこのような盛事はなく,神の感に応ずるもの有り。謹んで華表を献じ,永く瑞徴を紀す。」ということだそうです。左(西側)の柱には,「明治四十一年十月五日 仙台市大内源太衛門家内一同敬白 石工牡鹿郡井内石井貞輔 菅野卯吉 建方岡田大立兵衛」とあります。

 

 

 午後2時,4班に分かれて出発しました。私の班は,まず「治兵衛の宿」の標柱です。「おくのほそ道」は,松尾芭蕉(宗房)が河合曾良を伴って,元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち,東北・北陸を巡り,岐阜大垣に至る(同年8月21日(陽暦10月4日)頃到着,9月6日(陽暦10月18日)伊勢に出発)約150日,約600里(約2400km,1里は約3927m)に及ぶ紀行です。塩竈には同年5月8日(陽暦6月24日)に訪れ,御釜神社,野田の玉川などを巡り,鹽竈神社東参道下の治兵衛の宿に泊まり,翌日(陽暦6月25日)鹽竈神社に参拝し,船で籬が島などを眺めながら松島に向かいました。

 

10.12(2)

 

 七曲坂を上ることにしたため,四方跡(よもせき)公園(塩竈市西町)に向かいます。その四方跡公園にある「奉植一宮御境内櫻木五百株」の碑です。延享2年3月10日(1745年4月11日),桃生郡深谷北村(現・石巻市北村)の「月参講中九十四人」が桜木500本を植樹した記念碑です。その1本が現在も志波彦神社神門前にあるエドヒガン(江戸彼岸)であると言われています。志波彦神社鹽竈神社境内で最も古いサクラ(桜)で,今年「推定樹齢276年」と細かく言えるのは,この石碑があるためです。四方跡公園は,江戸時代初期まで約1千年間,鹽竈神社左宮一禰宜・阿部安太夫家が屋敷を構えていた場所だそうです。

 

奉植記念碑(1)

 

10.12(3)

 

 七曲坂の途中にあるケヤキ(欅)です。推定樹齢約千年とのことです。

 

 

 七曲坂を上り切りました。鹽竈神社博物館前の「藤塚知明旧宅跡」の碑です。藤塚知明(藤塚式部源知明,号は鹽亭)は,鹽竈神社を語る上で欠かすことのできない人物です。知明は,「寛政の三奇人」(林子平(友直),高山彦九郎(正之),蒲生君平(秀実))と交遊した鹽竈神社神職です。知明は元文3年(1738年)桃生郡十五浜村大須浜(現・石巻市雄勝町大須浜)に漁師の子として生まれ,寶(宝)暦8年(1758年)鹽竈神社神職(三社兼帯の塩蒔太夫という極めて低い家柄)・藤塚知直の養子となりました。天明の大凶作に大豆と麻の実で餅を作って飢民を救い,あるいは凶作で祀田の実らないのを憂いて自ら家費をもって祭祀料に充て,祭祀執行の円滑を図り,神徳の発揚と神社の興隆に努めた功により,天明5年(1785年)鹽竈神社別宮三禰宜に補任(ぶにん)されました。知明は,鹽竈神社の別当寺であった法蓮寺と「寶(宝)篋印塔(ほうきょういんとう)事件」,「仏舎利事件」を社家(世襲の神職)を率いて戦いました。しかし,支配役である法蓮寺を差し置いての僭越行為及び上(仙台藩)に対する不敬等の罪を問われ,寛政10年(1798年)桃生郡鹿又村(現・石巻市鹿又)へ流され,寛政12年(1800年)流寓先において63歳で亡くなっています。

 

藤塚知明旧宅跡碑

 

探訪会(6)

 

 志波彦神社鳥居です。

 

10.9(3)

 

 志波彦神社です。志波彦神社は,「延喜式神名帳」(延長5年(927年))に記載されている名神大社です(「延喜式内名神大社」と言います。)。鹽竈神社は「弘仁式主税帳」(弘仁11年(820年))及び「延喜式主税帳」に国家の正税(しょうぜい,租稲)から1万束の祭祀料を受ける神社として記載されているのですが,何故か「延喜式神名帳」には記載されていません(「式外社」と言います。)。宮城郡岩切村(現・仙台市宮城野区岩切)に鎮座していた志波彦神社は,明治4年5月14日(1871年7月1日)太政官布告「官社以下定額,神官職制等規則」により国幣中社に列せられたものの,長い歴史の中で境内は狭隘で祭典の執行にも差し障るようになっていたことから,明治7年12月24日鹽竈神社別宮へ遷祀しました。鹽竈神社はそれまで官国幣社等のいずれにも列せられていませんでしたが,国幣中社・志波彦神社が鹽竈神社境内に遷祀されることになったことから,鹽竈神社も国幣中社に列せられたのです(明治7年12月23日国幣中社列格奉告祭斎行)。志波彦神社の社殿は,「国費で建てられた日本最後の神社」として昭和13年竣工し,同年9月遷座しました。昭和38年塩竈市文化財に指定されています。

 

10.9(4)

 

10.9(5)

 

 「推定樹齢276年」のエドヒガン(江戸彼岸)です。志波彦神社鹽竈神社境内で最も古いサクラ(桜)です。

 

10.9(6)

 

 「皇族下乗」とあります。皇族でも乗り物から降りてくださいということです。

 

10.12(4)

 

 鹽竈神社馬場です。7月第2日曜日,ここで流鏑馬神事が斎行されます。ただし,令和2年,3年は新型コロナウイルス(中共・武漢ウイルス)感染拡大防止のため,中止されました。動画は,令和元年7月14日に撮影したものです。流鏑馬神事は陸奥國留守職・伊澤家景が三頭の馬を献じて流鏑馬を行い,部下の士気を高めたのが始まりと伝えられています。鹽竈神社別宮・左宮・右宮それぞれに一頭の馬を立て,三人の騎手が三つの的を次々と射抜いて行きます。矢が的中することは除災招福の瑞祥とされています。志波彦神社鹽竈神社HPでは,家景が三頭の馬を献じて流鏑馬を行ったのを「室町時代」としており,マス・メディアなどもこれを引用しています。しかし,家景は平安時代末期から鎌倉時代初期の御家人(?~承久3年(1221年))ですので,「室町時代」ではまったく時代が合いません。家景が陸奥國留守職に任ぜられたのは文治6年(1190年)ですから,「鎌倉時代初期」でしょう。流鏑馬神事斎行の直前にも,神職が放送で「今からおよそ830年前,陸奥國留守職・伊澤家景が三頭の馬を献じて流鏑馬を行い,部下の士気を高めたのが始まりと伝えられています。」と説明しています。

 なお,私は「室町時代」は明らかな誤りであると何度も主張しているのですが,ほとんど無視されています。それとも,陸奥國留守職を世襲した陸奥伊澤氏(留守氏)宗家の室町時代の当主に,鎌倉時代初期の家景と同名の「家景」という人物が存在するのでしょうか?陸奥伊澤氏(第2代・家広からは留守氏を称しています。)は系図がしっかりしていますので,「陸奥伊澤氏(留守氏)宗家第〇代当主の名は家景である。」と簡単に示して欲しいものです。

 

10.9(7)

 

 

 鹽竈神社表参道(表坂)上から表参道を望みます。表参道は202段の急な階段です。神輿(重さ約1t)はここを下り,上ります。国指定重要文化財・表参道石鳥居の柱に,「鹽竈宮大明神奉献建石華表一基」,「寛文三年癸卯七月十日松平龜千代」の刻銘があります。寛文3年(1663年)仙台藩第4代藩主・伊達綱村の奉献です。伊達氏は将軍・徳川氏から「松平」を与えられ,初代藩主・政宗以来代々の藩主は「松平陸奥守」を称していましたので,「松平龜千代」と刻したのでしょう。綱村は当時わずか5歳です(当時は,幼名の「龜(亀)千代」)。

 なお,表参道石鳥居以外にも,建物14棟,太刀2振,棟札11枚が国指定重要文化財になっています。

 

10.12

 

 塩竈市の花(市花)・ハマギク(浜菊)です。

 

10.9(9)

 

 鹽竈神社随身門です。「随身」(ずいじん)とは,本来天皇・貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことで,藤原道長の随身・下毛野公時(しもつけののきんとき)が有名です。金太郎のモデルで,近衛府官人「第一の者」と言われていたとのことです。随身姿の守護神像を左右に安置した神社の門を「随身門」と言います。

 

10.9(10)

 

 菊の御紋(十六弁八重表菊紋)です。明治2年太政官布告第195号によって天皇の紋章とされました。

 

10.9(11)

 

 推定樹齢800年の御神木杉です。かつては,御神木杉の西側に「文治の燈籠」があったようです。

 

10.9(12)

 

 鹽竈神社四足門(よつあしもん)前の延享4年(1747年)8月吉日奉納の石造狛犬です。出川哲朗さんに似ていると言われています。通称「仙台狛犬」と言い,有名です。志波彦神社鹽竈神社第14代宮司・押木耿介「鹽竈神社」(学生社)には「グロテスクな顔が捨てがたい。」とあります。

 

10.9(13)

 

 鹽竈神社四足門(国指定重要文化財としての名称は,単に「門」)です。

 

10.9(14)

 

 鹽竈神社別宮拝殿です。別宮本殿に鹽竈神社の主祭神である鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)が祀られています。

 

10.9(15)

 

 鹽竈神社左右宮拝殿です。拝殿は一つですが,本殿は二つです。左宮本殿に武甕槌神(たけみかづちのかみ,鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)の主祭神),右宮本殿に経津主神(ふつぬしのかみ,香取神宮(千葉県香取市香取)の主祭神)が祀られています。

 

10.9(16)

 

 鹽竈神社左右宮拝殿階段擬宝珠(ぎぼし)にある刻銘です。「鹽竈宮造替 大檀主 従四位下行左近衛權少将兼陸奥守藤原朝臣吉村…寶永元甲申歳九月十日…」とあります。「藤原吉村」とは,仙台藩第5代藩主・伊達吉村のことです。伊達氏は藤原北家山蔭(やまかげ)流と称していますので,姓は藤原というわけです。寶(宝)永元年(1704年)9月10日,仮殿から新殿(現社殿)に遷座しました。

 

10.9(17)

 

 「文治の燈籠」です。左右宮拝殿の前(東側)にあります。松尾芭蕉は河合曾良とともに,元禄2年5月9日(1689年6月25日)鹽竈神社に参拝しました。その際,「文治の燈籠」を見学しています。そして,「神前に古き宝燈有。鉄の戸びらの面に文治三年(1187年)和泉三郎寄進と有。五百年来の俤(おもかげ)今目の前にうかびて,そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士也。佳命今に至りて,慕はずといふ事なし。誠人能道を勤,義を守るべし。名もまた是にしたがふと云り。」(「おくのほそ道」)と,忠衡を絶賛しています。忠衡は父・藤原秀衡(奥州藤原氏第3代)の遺言である源義経保護を強く主張して,その取扱いを巡って兄・泰衡(奥州藤原氏第4代)と対立し,誅殺されました。

 現在の「文治の燈籠」は,文化財指定されていませんので,新しいものと考えるのが自然でしょう。芭蕉らが来た頃の「文治の燈籠」とは屋根の形や飾りが違い,当時は石の柵もありませんでした。石の柵が設置されたのは享和3年(1803年)のことで,仙台の俳人を中心として44句の俳句が刻まれています。「鶯の 朝読みいそく 寝ぼほけ哉 八才 与三郎」というのもあります。

 

10.9(18)

 

 「林子平考案日時計」(複製)です。宮城県内最古の日時計で,学友である藤塚知明が寛政4年(1792年)に奉献したものです。石盤上にはローマ数字を刻し,「紅毛製大東日」と刻す異国風の珍しい日時計です。本物は鹽竈神社博物館内にあります。子平は仙台藩医の弟で,「三国通覧図説」,「海国兵談」などの著作で,海防の必要性を説きました。まったく正しい主張であったにもかかわらず,頭の固い朱子学(儒教の一派)信奉者で世界を見ようとしない老中・松平定信らによって弾圧(両著とも発禁,「海国兵談」は版木没収,子平は蟄居処分)され,失意のうちに死去しました。子平は蟄居中,その心境を「親も無し 妻無し子無し 版木無し 金も無けれど 死にたくも無し」と嘆き,自ら六無斎(ろくむさい)と号しました。現代でも国家(国民とその政府)にとって最も重要な国防がまったくわかっていない人(政治家を含む日本国民)が多過ぎます。

 

10.9(19)

 

 文化燈籠(銅鉄合成燈籠)です。文化6年(1809年)に仙台藩第9代藩主・伊達周宗(ちかむね,「かねむね」と読む説もあります。)が,文化5年(1808年)江戸幕府から命じられた蝦夷地警護(択捉,国後,箱館に約2千人を派兵)の凱旋記念に奉納したもので,銅鉄合成の動物,花鳥をはめ込み,精巧を極めています。昭和51年10月1日塩竈市有形文化財に指定されました。

 伊達氏所縁(ゆかり)のものであることを示すのが家紋です。伊達家伯記念會(会長は,伊達氏宗家第34世・仙台藩主家第18代当主の伊達泰宗氏です。)のHPには8つの家紋が載っていますが,もっと多いとの説もあります。この文化燈籠には2つの家紋が刻まれています。まず,竪三引両(たてみつひきりょう)です。伊達氏宗家第1世・朝宗が文治5年(1189年)源頼朝から拝領した幕紋二引両(まくもんふたつひきりょう)を,後代竪三引両に改め輪郭に入れて図案化し定紋としたもので,伊達氏の家紋では最も古いものです。

 次に,竹に雀です。天文11年(1542年)第14世・稙宗の息子・時宗丸(後の実元,実元の子が「伊達三傑」の一人・「武の成実」と言われた成実です。)が越後守護職・上杉定実の養子に入ることになり,その婿引出物として贈られたもので,第15世・晴宗の代から伊達氏累代の定紋(仙台笹)となりました。しかし,天文の乱(天文11年から17年まで(1542年~48年)稙宗・晴宗の内紛に伴って発生した一連の争乱)によって入嗣は立ち消えとなったのですから,本来この家紋は返還しなければならなかったはずです。

 

10.9(20)

 

 鹽竈神社の社紋(神紋)です。

 

10.12(5)

 

 ソメイヨシノ(染井吉野)です。これが志波彦神社鹽竈神社境内のサクラ(桜)の開花,満開宣言の基準となる木(標準木)とのことです。鹽竈ザクラの標準木は別です。

 

10.12(6)

 

 国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」です(標準木ではありません。)。青いタグが付いています。国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」と国指定天然記念物でない「鹽竈ザクラ」は,見た目はまったく同じです。カスミザクラ(霞桜)の八重咲きがスイショウザクラ(水晶桜)で,鹽竈ザクラは水晶桜の突然変異であると考えられていますが,雌蕊(めしべ)が葉化してしまうため,接ぎ木で増やします。その接ぎ木の台木が異なるのです。国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」は,台木がマザクラ(真桜)です。国指定天然記念物でない「鹽竈ザクラ」は,台木がヤマザクラ(山桜)です。山桜への接ぎ木を繰り返すと,花が山桜化してしまい,「まり(毬、鞠)のような八重桜」でなくなってしまうと言われています。また,「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」ですので,志波彦神社鹽竈神社境内にあるものに限られます。境内に27本あるようです。ただし,立入禁止区域内にあるものがあり,すべてを確認することはできません。

 

10.9(21)

 

 「伊達綱村公顕彰碑」です。鹽竈神社を深く崇敬していた綱村は,寛文13年(1673年)の御舟入堀(おふないりぼり)の完成などにより経済情勢が悪化していた門前町塩竈を救うため,貞享2年(1685年)に9箇条からなる塩竈振興令を発しました。これが「貞享特令」と呼ばれるもので,年250両に及ぶ金子の下賜,年貢の免除,商売の荷物や海産物を積んだ船,仙台藩領や他領の材木を積んだ船は必ず塩竈へ入港するよう定めたことなど,異例と言える内容で,衰退していた塩竈が息を吹き返す契機となったのです。御舟入堀は,米中心の輸送路として江戸幕末までその役割を果たすこととなりました。

 

10.9(22)

 

 鹽竈神社東神門です。日支飼料株式会社社長・片倉直人が造営費(1万5千円)を寄進し,昭和16年10月竣工したものです。日支飼料株式会社は,その後片倉飼料株式会社,片倉チッカリン株式会社,片倉コープアグリ株式会社と社名変更しています。

 

探訪会(37)

 

 「陸奥國一之宮 鹽竈神社」の標柱です。

 

10.12(7)

 

 シホウチク(四方竹)です。タケノコ(筍)が多数出ています。食べ頃を過ぎてしまったようです。

 

10.12(8)

 

10.12(9)

 

 明和5年(1768年)奉納の燈籠です、この燈籠の興味深いところは,燈籠とともに田圃(たんぼ)を寄進したことが刻されていることです。燈籠を奉納されても燃料が無ければ困ります。寄進した田圃で収穫した米を売却して燃料代に充てて欲しいということでしょう。ただし,私には読めません。拓本を採って研究している方から教示されたものです。

 

探訪会(40)

 

 鹽竈神社二之鳥居です。鹽竈神社東参道,七曲坂上にあります。寛政9年(1797年)に造立されたもののようです。扁額は神社本庁統理・徳川宗敬(むねよし,水戸徳川家第12代・篤敬の二男,一橋徳川家第11代・達道の養子,一橋徳川家第12代当主)が揮毫したもので,平成21年に鋳物で更新されたとのことです。

 

10.9(23)

 

 東参道脇にある文珠院取次の燈籠です。奉納されたのは元治(げんじ)元年(1864年)7月10日です。取次の文珠院は,鹽竈神社の別当寺であった法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺,別名「一森山鹽竈寺」,真言宗)の12あった脇院の一つです。東参道は,明治3年に廃寺となるまで法蓮寺僧侶の鹽竈神社への「通勤路」でした。 

 

10.9(2)

 

 「國幣中社鹽竈神社裏坂道路改修工事記念碑」です。この碑文中に,「文政天保の頃,中井新三郎の提唱により裏坂の改修が行われた」と記されています。正確には,天保3年(1832年)のことです。詳しくは,NPOみなとしほがま・藤橋經雄氏の「裏坂と道路改修記念碑」を御覧ください。

 

10.9(1)

 

 鹽竈神社の境外末社である御釜神社(塩竈市本町)です。祭神は鹽土老翁神で,鹽竈神社別宮の祭神と同じです。

 

御釜神社(1)

 

御釜神社(2)

 

御釜神社(5)

 

 神釜奉置所です。4口の神釜が安置されています。御釜神社では「神竈」と表記していますが,「竈(かまど)」とその上に乗っている「釜(かま)」は別物で,安置されているのはどこから見ても釜ですので,私は「神釜」と表記します。

 なお,「塩竈」の地名の由来はこれらの神釜に由来する(「別当法蓮寺記」)と言われているのですが,果たしてどうでしょうか。司馬遼太郎は「街道をゆく26 嵯峨散歩 仙台・石巻」において「塩竈」を「塩釜」と表記していますが,「本来,かなで「しほがま」と表記することがもっとも古格ではあるまいか。奥州のしほがまの場合,はじめにしほがまという大和言葉があって,のちに漢字があてられたにすぎない。」とその理由を説明しています。

 

御釜神社(6)

 

 ここで,7月6日に藻塩焼き神事が斎行されます。

 

10.12(10)

 

 旧ゑびや旅館(塩竈市本町)です。明治初期に建てられ,当時としては大変珍しい木造3階の建物です。2・3階の各部屋は,その素材を生かした天井など趣きある仕上がりとなっています。明治9年明治天皇の東北巡幸の際には,随行の大隈重信らが宿泊しました。現在はまちかど博物館になっています(ただし,休館中)。

 

10.12(11)

 

 株式会社佐浦(塩竈市本町)の事務所玄関として活用されているのが,法蓮寺の向拝です。

 法蓮寺は,江戸時代まで鹽竈神社の別当寺でした。神仏習合(混淆)と言うだけでなく,脇院12房,社家29家からなる「一山」の中心として,鹽竈神社の社務一切を支配していたのです。しかし,神仏判然令によって明治3年廃寺となりました。向拝とは仏堂などの屋根の中央が前方に張り出した部分のことですが,法蓮寺廃寺の際に多賀城市南宮の慈雲寺(祝陽山慈雲禅寺,曹洞宗)が譲り受け,その玄関として使用して来ました。平成18年その慈雲寺の立て替えに伴って,向拝も解体処分されるところ,NPOみなとしほがまが慈雲寺の協力を得て部材を塩竈へ運搬保存し,活用を検討中,事務所新築を計画していた株式会社佐浦が協力の手を差し伸べ,事務所玄関として移築活用されることになったものです。

 

向拝(1)

 

向拝(2)

 

 蔵元・佐浦家の家紋「丸に違い丁子」です。丁子(ちょうじ)はクローブのことです。

 

10.12(12)

 

 午後4時,壱番館(塩竈市本町)1階で解散です。

 

10.12(13)

 

   ☆     ☆     ☆     ☆     ☆      ☆  

 

 (参考)「塩竈巡り」参加者に勝画楼を見学したかったという方が多かったようです。令和2年12月5日にこのBLOGで紹介したものを,そのまま添付しておきます。

 

 勝画楼(しょうがろう)です。現在は立入禁止です。

 

勝画楼(1)

 

勝画楼(2)

 

 令和元年8月25日(日),「勝画楼見学・学習会」が開催されました。勝画楼は,平成29年塩竈市が宗教法人志波彦神社鹽竈神社から建物の譲渡を受け(土地は志波彦神社鹽竈神社所有),平成30年日本遺産「政宗が育んだ”伊達”な文化」構成文化財に追加登録され,塩竈市有形文化財(建造物)に指定された歴史的建造物です。見学・学習会の始めに,「勝画楼の基礎・基本10題」が出されました。なかなか面白いので,紹介しておきましょう。出題者は塩竈市教育員会のS氏です。
1 勝画楼は,鹽竈神社の別当寺であった(①     )の(②     )をその前身とする。
2 勝画楼は,仙台藩歴代藩主が神社を参詣する際の(③     )として使用された。
3 ここからの眺望を画にも勝るとして「勝画楼」の題字を揮毫したのは(④     )である。..

4 18世紀に増築された東向書院は,崖地にせり出す形で柱を立て,床を高くする(⑤     )風建築である。

5 明治4年,(⑥     )により勝画楼以外の伽藍はすべて取り壊され,寺宝は各地に分散した。
6 ⑥の際に撤去され,多賀城の(⑦     )に移築された向拝は,現在(⑧     )の社屋玄関に移築されている。
7 明治9年の天皇東北巡幸では,勝画楼が天皇の(⑨     )となった。
8 勝画楼は明治11年に民間払い下げられ,(⑩     )などとして利用され,市民に親しまれた。

 正解は,今回の最後に発表します。

 

 勝画楼は,鹽竈神社の別当寺(神社を管理する寺)であった法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺,真言宗)の一部です。勝画楼がいつ建てられたのかは,はっきりしません。しかし,「勝画楼」の額(現在は鹽竈神社博物館が所蔵)は,仙台藩第5代藩主・伊達吉村が隠居後に自筆で書いたとされていますので,第6代藩主・宗村に家督を譲った寛保3年(1743年)7月から死去の寶(宝)永元年(1752年)12月までの約9年間のどこかで書かれたことになります。当初は「御成之間 御床額」であったようです。その後,客殿の東側に書院が誕生すると額はそちらに掛け替えられたようです。勝画楼とは「ここからの眺望は画にも勝る」という意味とされ,吉村の命名とされています。千賀の浦(塩竈湾)を望める高台の楼閣で,仙台藩歴代藩主をはじめ多くの人に愛されました。

 なお,勝画楼は第7代藩主・重村によって,寶(宝)暦10年(1760年)から安永3年(1774年)の間に再興されたという説があります。

 現在勝画楼と呼ばれている建物は,年代の異なる2つの建物が接合してできた複合的な建造物のようです。書院の一部は東側の崖地にせり出した舞台造りになっています。仙台城にあった懸造りの縮小版と言えるものです。天保10年(1839年)3月,法蓮寺の伽藍は火災により本堂,観音堂,鐘楼など大半が焼失したとされ,書院と客殿の一部は類焼を逃れたようです。その後,焼け残った客殿の部分と書院とを併せて現在の形に改修されたとのことです。ただし,建築学の専門家は客殿には焼けた痕跡は無く,茅葺きの一部に飛び火すれば全部焼けてしまうはずで,客殿は焼けていないと言っているようです。いずれにしても,明治天皇の東北巡幸の際の行在所になった明治9年までの間に,西側部分が無くなっています。焼けてしまったのか,改修のために取り壊したものなのか,発掘調査をすれば判明するのではないかと思われますが,現在のところその見通しは立っていません。

 明治4年廃仏毀釈の際,法蓮寺は勝画楼を残して取り壊されました。本堂の向拝(玄関部分)は慈雲寺(曹洞宗,現・多賀城市南宮字町)へ移され,その後慈雲寺の本堂の玄関として再利用されました。

 明治11年勝画楼は藤元吉に売却されました。明治44年鈴木もとが借り受けて割烹料亭「勝画楼」として利用されました。昭和36年料亭は経営不振となり志波彦神社鹽竈神社に譲り渡されました。平成18年慈雲寺の本堂が立て替えられることになり,向拝も一緒に解体廃棄されることになったため,NPOみなとしほがまが保存活動をし,解体された部材を移送し,株式会社佐浦(塩竈市本町,江戸時代からの御神酒屋)の新築社屋の玄関として移築されました。

 その後,勝画楼は維持管理の努力にもかかわらず倒壊の危険があるとされ,一般の立ち入りが禁止されました。平成28年12月,志波彦神社鹽竈神社が勝画楼の解体を正式決定したとの報道がありました。これが報道されると,塩竈市民らから取り壊しを惜しむ声が上がり,平成29年9月一転して保存されることになりました。現地保存するとのことですが,工事にどれだけの年月を要するか,まったく分かりません。費用も莫大なものになるでしょう。

 

 それでは,「勝画楼の基礎・基本10題」の正解発表です。①法蓮寺,②客殿(書院でも正解),③御休所,④伊達吉村,⑤懸造り,⑥廃仏毀釈,⑦慈雲寺,⑧株式会社佐浦,⑨行在所,⑩料亭です。いかがだったでしょうか。