塩釜歴史探訪会(第1回)(その1) | 哲風のBLOG

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 「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」を目指している宮城県塩竈市に鎮座する志波彦神社鹽竈神社の神事,四季の移り変わりや,仙台,塩竈,多賀城,松島など宮城県内各地の名所,旧跡,行事などを紹介します。

 8月21日(土),NPOみなとしほがまボランティアガイドの会主催の塩釜歴史探訪会(第1回)が開催されました。午後1時に旧亀井邸(宮城県塩竈市宮町)に集合し,旧亀井邸,勝画楼(建物は塩竈市,土地は宗教法人志波彦神社鹽竈神社の所有で現在立入禁止になっているため,特別の許可を得て外観のみを見学しました。),鹽竈神社東参道(裏坂)から志波彦神社鹽竈神社(塩竈市一森山)境内,鹽竈神社七曲坂から旧ゑびや旅館・御釜神社(塩竈市本町)前までの所要時間約2時間35分の探訪会でした。次回(第2回)は,8月28日(土)午後1時に御釜神社に集合し,御釜神社,法蓮寺の向拝(株式会社佐浦の事務所玄関),旧ゑびや旅館(まちかど博物館)を巡る予定です。

 それでは,塩釜歴史探訪会(第1回)のうち,「國幣中社鹽竈神社裏坂道路改修工事記念碑」から志波彦神社鹽竈神社境内を巡って鹽竈神社二之鳥居までの歴史探訪について,報告します。今日は,「(その1)」です。

 

 塩釜商工会議所が設置した「裏坂界隈の歴史」です。

 

探訪会(1)

 

 鹽竈神社東参道下の「國幣中社鹽竈神社裏坂道路改修工事記念碑」です。この碑には,「報神徳 國幣中社鹽竈神社裏坂道路改修工事記念碑 従三位伯爵伊達宗基篆額……」とあります。碑文を読むと,明治41年に竣工した東参道改修事業を顕彰するために建てられたものであることが分かります。この碑文中には「文政天保の頃,中井新三郎の提唱により裏坂の改修が行われた」と記されています。しかし,どのような改修であったのかは分かりません。そのため,東参道が現在のような稲井石(井内石)の敷石となったのは明治41年のことであると,かなり長い間信じられて来ました。

 しかし,まったく違ったのです。鹽竈神社二之鳥居から旧・法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺,別名「一森山鹽竈寺」,真言宗,鹽竈神社の別当寺)門前までの約300mが稲井石の敷石になったのは,天保3年(1832年)のことだったのです。改修の総経費は1350両で,中井家(中井新三郎は,近江商人・中井源左衛門が仙台に出した支店「近江屋」の支配人だったとのことです。)が800両を寄付しています。明治41年の改修は東参道の入口部分でしたが,総経費は7千円余です。これもかなりの規模の改修工事であったようです。東参道の入口に店舗が面していた遊佐寿助(遊佐一貫堂)が500円を寄付しています。詳しくは,NPOみなとしほがま・藤橋經雄氏の「裏坂と道路改修記念碑」を御覧ください。

 なお,明治41年になっても,「六神の御稜威」と鹽竈神社に6柱の神が祀られているかような記載があるのは不思議です。

 

探訪会(2)

 

 東参道下の五重塔です。大正10年,吉田高等女学校の設立に尽力した吉田つぎによって奉納されたものと伝わっています。吉田高等女学校は,昭和5年伊澤平左衛門を設立者として,高等女学校令により開校認可されました。吉田つぎが学校設立基金を寄付したとのことです。現在の学校法人聖和学園(仙台市若林区木ノ下三丁目)です。この塔はいかにも寺院っぽい塔ですが,宮城県仏教会が仏教精神による高等女学校設立を計画したものですから,当然と言えなくもありません。聖和学園は,臨済宗妙心寺派の関係学校になっています。

 

探訪会(3)

 

 東参道脇にある文珠院取次の燈籠です。奉納されたのは元治(げんじ)元年(1864年)7月10日です。取次の文珠院は,鹽竈神社の別当寺であった法蓮寺の12あった脇院の一つです。奉納者は「世話人」が「斎藤」,「今野屋」とあるものの,それ以外は氏(うじ)の記載がなく,名(な)のみですので,庶民と思われます。東参道は,明治3年に廃寺となるまで法蓮寺僧侶の鹽竈神社への「通勤路」でした。

 

探訪会(4)

 

 現在は四阿(あずまや)ですが,この付近(東参道を挟んで鹽竈神社博物館の反対側)に藤塚知明邸の離れ(「金華亭」)があったようです。

 

探訪会(5)

 

 さて,藤塚知明(藤塚式部源知明,号は鹽亭)は,鹽竈神社を語る上で欠かすことのできない人物です。知明は,「寛政の三奇人」(林子平(友直),高山彦九郎(正之),蒲生君平(秀実))と交遊した鹽竈神社神職です。知明は元文3年(1738年)桃生郡十五浜村大須浜(現・石巻市雄勝町大須浜)に漁師の子として生まれ,寶(宝)暦8年(1758年)鹽竈神社神職(三社兼帯の塩蒔太夫という極めて低い家柄)・藤塚知直の養子となりました。天明の大凶作に大豆と麻の実で餅を作って飢民を救い,あるいは凶作で祀田の実らないのを憂いて自ら家費をもって祭祀料に充て,祭祀執行の円滑を図り,神徳の発揚と神社の興隆に努めた功により,天明5年(1785年)鹽竈神社別宮三禰宜に補任(ぶにん)されました。それまで左宮・右宮は三禰宜制でしたが,知明補任まで別宮三禰宜は設けられていませんでした。知明は,鹽竈神社の別当寺であった法蓮寺と「寶(宝)篋印塔(ほうきょういんとう)事件」,「仏舎利事件」を社家(世襲の神職)を率いて戦いました。しかし,支配役である法蓮寺を差し置いての僭越行為及び上(仙台藩)に対する不敬等の罪を問われ,寛政10年(1798年)桃生郡鹿又村(現・石巻市鹿又)へ流され,寛政12年(1800年)流寓先において63歳で亡くなっています。

 

探訪会(6)

 

 志波彦神社鳥居です。

 

探訪会(7)

 

探訪会(8)

 

探訪会(9)

 

 その志波彦神社鳥居近くにある千葉立造歌碑です。表には「我庵の たつる烟は しほがまの 神の恵に つづくとぞおもふ 七十九叟立造」,裏には「家父の舊詠 大正十一年七月 東京 児 千葉真一建 田鶴年刻」とあります。「煙を立てる」とは「生計を立てる」ということですから,千葉立造が79歳の時に,「我が家の今日の繁栄は鹽竈の神のお恵みである。」という和歌を詠み,東京にいた子息(三男)・真一がこの碑を奉納したのでしょう。ちなみに,立造は黒川郡粕川村(現・大郷町粕川)出身の医師で,剣豪・明治天皇侍従であった山岡鐵舟と交流し,鐵舟の主治医を務めました。

 真一も医師です。歴史学者の磯田道史氏(現・国際日本文化研究センター教授)が「日本史の探偵手帳」(文春文庫)に,真一のことを書いています。「明治四十年十月二十七日の時事新報では千葉真一という医師が「すでに百数十名の美人を手術した」と誇らしげに語っている。」(187頁)。「日本橋浜町(現・東京都中央区)の千葉病院」における手術です。何の手術でしょうか。「隆鼻整形」です。「明治末年の隆鼻の術式は「パラフィン注射」が主流であった。パラフィンは…石油由来の石蝋である。…これを熟して注射器に入れ固まったときに押し出しあらかじめ鼻の穴から線香ほどの針を入れてあけておいた皮膚下の隙間に注入して鼻に高さをもたせる手術である。」(186頁)。ただし,美容外科の専門学会ができたのは昭和23年のことで,かつては,鼻は耳鼻咽喉科医が,目は眼科医が整形する体制であったとのことです。真一も明治45年に順天堂大学耳鼻咽喉科長に就任した耳鼻咽喉科医です。少し脱線しました(笑)。

 

探訪会(10)

 

探訪会(11)

 

 志波彦神社鹽竈神社は,志波彦神社,鹽竈神社別宮,鹽竈神社左右宮の順に参拝するのが正式であるとされています。何故鹽竈神社よりも志波彦神社が先なのでしょうか。

 志波彦神社は,「延喜式神名帳」(延長5年(927年))に記載されている名神大社です(「延喜式内名神大社」と言います。)。鹽竈神社は「弘仁式主税帳」(弘仁11年(820年))及び「延喜式主税帳」に国家の正税(しょうぜい,租稲)から1万束の祭祀料を受ける神社として記載されているのですが,何故か「延喜式神名帳」には記載されていません(「式外社」と言います。)。宮城郡岩切村(現・仙台市宮城野区岩切)に鎮座していた志波彦神社は,明治4年5月14日(1871年7月1日)太政官布告「官社以下定額,神官職制等規則」により国幣中社に列せられたものの,長い歴史の中で境内は狭隘で祭典の執行にも差し障るようになっていたことから,明治7年12月24日鹽竈神社別宮へ遷祀しました。鹽竈神社はそれまで官国幣社等のいずれにも列せられていませんでしたが,国幣中社・志波彦神社が鹽竈神社境内に遷祀されることになったことから,鹽竈神社も国幣中社に列せられたのです(明治7年12月23日国幣中社列格奉告祭斎行)。わかりやすく言えば,志波彦神社のおかげで鹽竈神社の格が上がったということになります。志波彦神社鹽竈神社神職が「志波彦神社の方が少し格が上なのです。」と説明しているのは,こういうことでしょう。ただし,神職(現・禰宜)・OM氏は,平成27年1月6日放送のミヤギテレビ(日テレ系)「OH!バンデス」で,「すべてお参りしていただければ,特に拘っていません。」とも述べていますので,拘り過ぎるのは如何かと思います。

 

探訪会(12)

 

探訪会(13)

 

 「推定樹齢276年」のエドヒガン(江戸彼岸)です。何故そこまで細かく言えるのでしょうか。鹽竈神社七曲坂入口の四方跡(よもせき)公園(塩竈市西町)に「奉植一宮御境内櫻木五百株」の碑があるからです。延享2年3月10日(1745年4月11日),桃生郡深谷北村(現・石巻市北村)の「月参講中九十四人」が鹽竈神社及びその周辺に桜木500本を植樹した記念碑です。そのうちの1本がこれであると言われています。志波彦神社鹽竈神社境内で最も古いサクラ(桜)です。

 

探訪会(14)

 

 ロウバイ(蠟梅)です。石碑は明治33年7月大内源太右衛門(仙台の呉服商)が奉納したもので,鈴木省三(現・岩沼市出身の医師・漢学者,号は雨香)の撰文です。それによると,林子平が長崎に遊学の際,支那(清)から渡来のロウバイに魅せられ,これを持ち帰って藤塚知明に贈ったもので,知明邸の離れ(「金華亭」)にあったのを,知明没後この地へ移植したものであるとのことです。ただし,何代目かのものではないかと思われます。

 

探訪会(15)

 

探訪会(16)

 

探訪会(17)

 

 鹽竈神社東神門下(東側)にある志波彦神社及び鹽竈神社の由緒です。鹽竈神社由緒には,「当神社は,武甕槌神と経津主神の二神が鹽土老翁神の案内により陸奥国を鎮定して当地に祀られたのが始まりとされる。鹽土老翁神は,当地に留まって人々に塩つくりを教え広められたと伝えられる。平安時代編集の「弘仁式」並び「延喜式」に「鹽竈の神を祭る料壱萬束」と記されていることから,当時すでに重要な神社であったと考えられる。その後も武家による崇敬を集め,特に江戸時代には,仙台藩主伊達家は厚い崇敬を寄せ,歴代の仙台藩主は,社領などを寄進するとともに,自ら祭事を司った。」とあります。

 律令制度は,律(刑法に相当),令(行政法・民法に相当),格(きゃく,律令の修正・補足のための法令と詔勅),式(律令の施行細則)によって運用されます。弘仁(こうにん)式は弘仁11年(820年)に,延喜式は延長5年(927年)に完成しました。それらの主税帳に,「祭鹽竈神料壱萬束」とあります。当時陸奥國運営のための財源に充てられていた正税(しょうぜい)が60万3000束(そく)です。つまり,正税の約60分の1の祭祀料を受けていたということになります。1万束が何石に相当するのか諸説があり,はっきりしません。

 仙台藩初代藩主・伊達政宗は,元和5年(1619年)鹽竈神社に社領として24貫336文(仙台藩では1貫文は10石ですので,約243石)を寄進しています(うち約146石が社家分,その余は別当・法蓮寺及び脇院分)。ただし,高橋正己「鹽竈神社旧社家の歴史」(昭和56年12月)によれば,政宗は留守氏時代の社領を没収した上で改めて寄進しており,寄進された社領は元の知行高をはるかに下回ったとのことです。

 第4代藩主・綱村は,寛文3年(1663年)鹽竈神社に社領として7貫584文(約75石)を寄進しています。ただし,すべて法蓮寺に渡っています。ここで,法蓮寺側が社家側を知行高で上回ることになりました。綱村は当時5歳ですから,この寄進は隠居した第3代藩主・綱宗の意志によるものと思われます。 

 第5代藩主・吉村は,寶(宝)永元年(1704年)鹽竈神社に社領として55貫文(550石)を寄進していますが,併せて「一山の社家社僧は法蓮寺の下知に従え。」と命じています。

 最終的に,伊達氏から寄進された「石高は1035石2斗で,このうち170石を祭料とし,その余りは法蓮寺別当社家社僧で配分した。」(志波彦神社鹽竈神社第14代宮司・押木耿介「鹽竈神社」(学生社))とのことです。

 江戸幕末まで鹽竈神社には宮司家が存在せず,初代・伊達政宗以降歴代の仙台藩主は大神主として自ら祭事を司っていました。実質祭祀を行っていたのは禰宜家です。寶(宝)永年間の社家は29家で,上位の5人(左宮一禰宜,右宮一禰宜,別宮一禰宜,祝詞大夫,左宮二禰宜)を番頭とし,他の社家23人を指揮していました。また,御釜神社専従の社家(御釜守)が1人いました。左宮一禰宜が神職中筆頭の地位を継承していたのは明らかです。

 

探訪会(18)

 

 鹽竈神社馬場です。7月第2日曜日,ここで流鏑馬神事が斎行されます。ただし,令和2年,3年は新型コロナウイルス(中共・武漢ウイルス)感染拡大防止のため,中止されました。動画は,令和元年7月14日に撮影したものです。

 流鏑馬神事は陸奥國留守職・伊澤家景が三頭の馬を献じて流鏑馬を行い,部下の士気を高めたのが始まりと伝えられています。鹽竈神社別宮・左宮・右宮それぞれに一頭の馬を立て,三人の騎手が三つの的を次々と射抜いて行きます。矢が的中することは除災招福の瑞祥とされています。

 なお,志波彦神社鹽竈神社HPでは,家景が三頭の馬を献じて流鏑馬を行ったのを「室町時代」としており,マス・メディアなどもこれを引用しています。しかし,家景は平安時代末期から鎌倉時代初期の御家人(?~承久3年(1221年))ですので,「室町時代」ではまったく時代が合いません。「鎌倉時代初期」でしょう。流鏑馬神事斎行の直前にも,神職が放送で「今からおよそ830年前」云々と説明しています。家景が陸奥國留守職に任ぜられたのは文治6年(1190年)ですから,それ以降ということになります(伊澤氏は家景の子・家元以降も陸奥國留守職を世襲したため,留守氏を称します。)。

 

 

 鹽竈神社表参道(表坂)上から表参道を望みます。鹽竈神社の現在の社殿は,仙台藩第4代藩主・伊達綱村の元禄8年(1695年)に造営が始まり,第5代藩主・吉村の寶(宝)永元年(1704年)に竣工した(「元禄の造営」)ものですが,「元禄の造営」の前に「寛文の造営」がありました。第3代藩主・綱宗の萬(万)治2年(1659年)に始まり,第4代藩主・綱村の寛文3年(1663年)に竣工した造営です。造営大奉行は,山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」の主人公・原田宗輔(甲斐)です。ただし,宗輔は寛文事件(「伊達騒動」とも。寛文11年(1671年))によって仙台藩の大逆臣となったためか,棟札は「原田甲斐守宗恒」となっているとのことです。大逆臣の名を憚って,後にわざと「宗輔」を「宗恒」と改作したのでしょう。

 表参道石鳥居は,脚部で柱径2尺(約60cm),地面から笠木上端まで高さ20尺(約6m),花崗石造の明神鳥居で,柱に「鹽竈宮大明神奉献建石華表一基」,「寛文三年癸卯七月十日松平龜千代」の刻銘があります。伊達氏は将軍・徳川氏から「松平」を与えられ,初代藩主・政宗以来代々の藩主は「松平陸奥守」を称していましたので,「松平龜千代」と刻したのでしょう。綱村は当時わずか5歳です(当時は,幼名の「龜(亀)千代」)。奉献は,萬(万)治3年(1660年)に21歳で隠居させられた綱宗の意志であったと思われます。

 なお,表参道石鳥居は国指定重要文化財です。それ以外にも,建物14棟,太刀2振,棟札11枚が国指定重要文化財になっています。

 

探訪会(19)

 

 表参道上にある石燈籠です。燈籠に付いている穴に耳を当てると海鳴りが聞こえると言っている人がいます。「海鳴り」とは,台風や津波が来る前ぶれとして海から響いて来るうなりのことです。そのような時に,ここで何か聞こえないかと耳を当てている人がいるのでしょうか。また,潮騒が聞こえるという人もいます。「潮騒」とは,潮が満ちて来る時波が大きい音をたてることです。いずれも風の音を聞き違えたのでしょう(笑)。私は何度も耳を当ててみましたが,何も聞こえません。

 燈籠の北側に,「嘉永四年辛亥歳五月吉日」とあります。嘉永4年(1851年)5月に寄進されたものであることがわかります。東側には世話人の名前が連なっています。「○○屋」とありますので,商人(それも豪商)でしょうか。

 

探訪会(20)

 

 それでは,明日の「(その2)」に続きます。