塩釜歴史探訪会(第1回)(その2) | 哲風のBLOG

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 「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」を目指している宮城県塩竈市に鎮座する志波彦神社鹽竈神社の神事,四季の移り変わりや,仙台,塩竈,多賀城,松島など宮城県内各地の名所,旧跡,行事などを紹介します。

 8月21日(土),NPOみなとしほがまボランティアガイドの会主催の塩釜歴史探訪会(第1回)が開催されました。そのうち,「國幣中社鹽竈神社裏坂道路改修工事記念碑」から志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)境内を巡って鹽竈神社二之鳥居までの歴史探訪について,報告します。今日は,「(その2)」です。

 

 「鹽竈神社帆手祭・花祭」は,平成28年4月文化庁によって認定された日本遺産「政宗が育んだ”伊達”な文化」の構成文化財です。塩竈市内の構成文化財は,「鹽竈神社」,「鹽竈神社帆手祭・花祭」,「鹽竈神社歴代藩主奉納太刀(鹽竈神社博物館蔵)」,「籬が島」(塩竈市新浜町一丁目 籬島),「勝画楼」です。このうち「勝画楼」は,平成30年度追加認定です。

 「鹽竈神社帆手祭・花祭」は,「仙台藩の許可を得て始められた氏子の祭りで,鹽竈神社表参道(表坂)石鳥居までは鹽竈神社,その外側は氏子が全責任を負います。重さ約1トンの神輿は荒れ神輿として知られ,現在帆手祭は毎年3月10日,花祭は4月第4日曜日に斎行されます。」(塩竈市HPから引用)帆手祭は天和2年(1689年),花祭は安永7年(1778年)に始まったと伝わっています。

 

探訪会(21)

 

 鹽竈神社随身門です。「随身」(ずいじん)とは,本来天皇・貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことで,藤原道長の随身・下毛野公時(しもつけののきんとき)が有名です。金太郎のモデルで,近衛府官人「第一の者」と言われていたとのことです。随身姿の守護神像を左右に安置した神社の門を「随身門」と言います。

 

探訪会(22)

 

 菊の御紋(十六弁八重表菊紋)です。明治2年太政官布告第195号によって天皇の紋章とされました。

 

探訪会(23)

 

 推定樹齢800年の御神木杉です。かつては,御神木杉の西側に「文治の燈籠」があったようです。

 

探訪会(24)

 

 「長明燈」です。仙台藩御用の米商人(大坂の豪商)・山片重芳(第4代升屋平右衛門)によって奉納された一対の燈籠です。「しおがまさま境内案内」によると,「境内にある石造の燈籠としては最も立派なもの」とのことです。いつ奉納されたものでしょうか。同じく「しおがまさま境内案内」には,「享和元年(1801年)に寄進された」と書いてあります。石には「享和元年辛酉秋八月」と刻されています。享和元年は辛酉(かのととり,しんゆう)歳ですから,享和元年で争いはないはずです。ところが,大阪青山短期大学講師・宮田徳雄氏の調べによる由来文には,「享和3年(1803年)御影石で作り,大阪から大船で運んできた」と書かれているのです。由来文が誤記なのでしょう。その升屋の番頭が山片蟠桃(ばんとう,諱(いみな=本名)は芳秀)です。蟠桃は,財政危機にあった仙台藩の差米(さしまい)検査を無料で引き受ける代わりに,抜いた米を貰うこととし,藩札で米を買い上げ,現金は大坂で利殖に回して巨額の利益を上げました。一時的に仙台藩を救ったのです。

 

探訪会(25)

 

探訪会(26)

 

 鹽竈神社四足門(よつあしもん。国指定重要文化財としての名称は,単に「門」です。しかし,これでは他の門と区別できませんので,四足門,四脚門,唐門などと呼ばれています。)前の延享4年(1747年)8月吉日奉納の石造狛犬です。出川哲朗さんに似ていると言われています。いや,出川さんがこの狛犬に似ているのでしょう(笑)。通称「仙台狛犬」と言い,有名です。志波彦神社鹽竈神社第14代宮司・押木耿介「鹽竈神社」(学生社)には「グロテスクな顔が捨てがたい」とあります。

 

探訪会(27)

 

 四足門前(西側)の寛文13年(1673年)和田房長(半之助)献納の石燈籠です。房長は,仙台藩第4代藩主・伊達綱村の命を受けて,貞山運河(御舟入堀,御舟曳堀)の工事を担当しました。鹽竈神社の御加護に感謝したものです。「石燈籠二基」を献納したとあるのですが,近くにもう1基が見当たりません。もう1基は,鹽竈神社左右宮拝殿東側の立入禁止区域にあります。何故離れた場所に置かれているのかは,不明です。

 なお,撰文の佐藤昭典氏は郷土史家のようです(「河北新報」平成29年9月7日)。

 

探訪会(28)

 

 鹽竈神社別宮拝殿です。

 

探訪会(29)

 

 鹽竈神社左右宮拝殿です。

 左右宮は仙台城(仙台市青葉区川内,現在は「仙台城跡」)を向いて建てられているという人がかなりいます。例えば,「週刊日本の神社第97号 志波彦神社鹽竈神社」(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン)P18「伊達政宗築城の仙台城」には,「伊達家の守護神である武甕槌神と経津主神を祀る鹽竈神社左右宮拝殿は,この城と相対するように南南西に向けて建てられている。」と記載されています。

 志波彦神社鹽竈神社HP「鹽竈神社の御由緒 社殿の不思議」にも,「通常の神社は鳥居ないし門を入った正面に主祭神を祀っておりますが,鹽竈神社は正面に左右宮(鹿島・香取の神)が南向きに,門を入って右手に主祭神たる鹽土老翁神を祀る別宮が松島湾を背に西向きに立っております。→これは伊達家の守護神たる鹿島・香取の神を仙台城の方角に向けて建て,大神主たる藩主が城から遙拝出来る様に配し,海上守護の鹽土老翁神には海難を背負って頂くよう海に背を向けているとも言われております。」と記載されています。

 鹽竈神社左右宮がほぼ南南西を向いて建てられていることは間違いのないところです。では,その方角に仙台城はあるでしょうか。ありません。地図を見れば簡単にわかります。お手元の地図(地図アプリ)を御覧ください。仙台城は,鹽竈神社から見て南西(正確には,南西よりももっと西向きです。)の方角にあります。従って,鹽竈神社左右宮は仙台城を向いていません。

 

探訪会(30)

 

地図

 

 このように,調べようと思えば簡単に調べられるにもかかわらず,他にも誤った情報が流布されています。例えば,「鹽竈神社表参道の斜度は,札幌市大倉山ジャンプ競技場(札幌市中央区宮の森)の斜度とほぼ同じである。」,「鹽竈神社東参道は,表参道と同じく202段ある。」などです。もっと酷いものがあります。「鹽竈神社は皇室が安産祈願をする全国に二つしかない神社の一つである。広辞苑第七版に載っている。」(広辞苑のどこに?皇室のどなたが安産祈願したのでしょう?昭和34年,正田富美子さんが当時の皇太子妃殿下(現・上皇后陛下)の安産祈願をしたことはありますが,富美子さん御本人は皇室の方ではありません。)皆さん,御注意ください。

 

 鹽竈神社左右宮拝殿階段擬宝珠(ぎぼし)にある刻銘です。「鹽竈宮造替 大檀主 従四位下行左近衛權少将兼陸奥守藤原朝臣吉村…寶永元甲申歳九月十日…」とあります。「藤原吉村」とは,仙台藩第5代藩主・伊達吉村のことです。伊達氏は藤原北家山蔭(やまかげ)流と称していますので,姓は藤原というわけです。ただし,自称との説もあります。

 元禄8年(1695年),第4代藩主・綱村の下でいわゆる「元禄の造営」が開始されました。元禄15年(1702年)11月13日仮宮本殿拝殿が炎上するという一大事がありました。元禄16年(1703年)8月25日綱村は隠居しました。養子(従弟)・吉村がその跡を継ぎ,長かった「元禄の造営」が終わりました。遷宮は寶(宝)永元年(1704年)9月10日の丑刻,即ち午前2時前後(の2時間)から仮殿を出御されて新殿に遷座されたとのことです。鹽竈神社別宮は,それまで貴船社,只洲宮のあった辺りに「元禄の造営」によって建てられたものです。また,別宮拝殿は「寛文の造営」(寛文3年(1663年))によって建てられた東西宮本殿(1社殿)を転用したものです。

 「檀主」とは,「檀那」と同じで,施主のことです。

 官位相当制(位階に応じた官職が与えられる制度)があったのですが,「行」(ぎょう)とは位階よりも低い官職にある場合に書き添える語です。反対に位階より高い官職にある場合には「守」(しゅ)と書き添えました。つまり,「従四位下」の位階からすると,「左近衛權少将兼陸奥守」の官職は低過ぎるということです。

 それにしても,「寛文の造営」からわずか30年余にして大規模な造替えが行われたのは,何故なのでしょうか。これを明らかにする資料は無いようです。鹽竈神社は,かつて「六所明神」と称され,6柱の神が東宮・西宮にそれぞれ3柱ずつ祀られていると考えられていたようです(ただし,「寛文の造営」時の本殿は1社殿です。)。しかし,その6柱の神が何かについては,不思議なことですが,諸説があり,混迷していました。綱村は,元禄6年(1693年)儒臣・田辺希賢(通称は喜右衛門,字は淳甫,号は整斎)らに命じて「鹽竈神社縁起」を作成させ,鹽土老翁神,武甕槌神,経津主神の3柱の神に確定しました。しかし,これでは東宮・西宮の両社制に合致しません。そこで,東西宮本殿を転用して別宮拝殿とするとともに,東西宮本殿を旧に復して2社殿(左宮本殿・右宮本殿)とするなど,大規模な造替えをしたのではないかというわけです。ただし,1つの説です。

 

探訪会(31)

 

 「文治の燈籠」です。左右宮拝殿の前(東側)にあります。松尾芭蕉は河合曾良とともに,元禄2年5月9日(1689年6月25日)鹽竈神社に参拝しました。その際,「文治の燈籠」を見学しています。そして,「神前に古き宝燈有。鉄の戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤(おもかげ)今目の前にうかびて,そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士也。佳命今に至りて,慕はずといふ事なし。誠人能道を勤,義を守るべし。名もまた是にしたがふと云り。」(「おくのほそ道」)と,忠衡を絶賛しています。忠衡は父・藤原秀衡(奥州藤原氏第3代)の遺言である源義経保護を強く主張して,その取扱いを巡って兄・泰衡(奥州藤原氏第4代)と対立し,誅殺されました。

 現在の「文治の燈籠」は,文化財指定されていませんので,新しいものと考えるのが自然でしょう。小池曲江画「芭蕉翁文治神燈見図」(天保11年(1840年),曲江(きょっこう)は江戸時代後期の塩竈生まれの画家です。)を見る限り,和泉三郎忠衡が文治3年(1187年)7月10日に奉納したとされる鉄の燈籠と同じものとはとても思えません。芭蕉らが来た頃の「文治の燈籠」とは屋根の形や飾りが違い,当時は石の柵もありませんでした。石の柵が設置されたのは享和3年(1803年)のことで,仙台の俳人を中心として44句の俳句が刻まれています。「鶯の 朝読みいそく 寝ぼほけ哉 八才 与三郎」というのもあります。

 

探訪会(32)

 

 「林子平考案日時計」(複製)です。宮城県内最古の日時計で,学友である藤塚知明が寛政4年(1792年)に奉献したものです。石盤上にはローマ数字を刻し,「紅毛製大東日」と刻す異国風の珍しい日時計です。本物は鹽竈神社博物館内にあります。子平は仙台藩医の弟で,「三国通覧図説」,「海国兵談」などの著作で,海防の必要性を説きました。まったく正しい主張であったにもかかわらず,頭の固い朱子学(儒教の一派)信奉者で世界を見ようとしない老中・松平定信らによって弾圧(両著とも発禁,「海国兵談」は版木没収,子平は蟄居処分)され,失意のうちに死去しました。子平は蟄居中,その心境を「親も無し 妻無し子無し 版木無し 金も無けれど 死にたくも無し」と嘆き,自ら六無斎(ろくむさい)と号しました。現代でも国家(国民とその政府)にとって最も重要な国防がまったくわかっていない人(政治家を含む日本国民)が多過ぎます。

 

探訪会(33)

 

 文化燈籠(銅鉄合成燈籠)です。文化6年(1809年)に仙台藩第9代藩主・伊達周宗(ちかむね,「かねむね」と読む説もあります。)が,文化5年(1808年)江戸幕府から命じられた蝦夷地警護(択捉,国後,箱館に約2千人を派兵)の凱旋記念に奉納したもので,銅鉄合成の動物,花鳥をはめ込み,精巧を極めています。はめ込まれている動物は蜃(しん,気を吐く龍),獏,象,獅子,麒麟,鹿,猫,牛,鳳凰などのように見えますが,私にはよくわかりません。興味がある方は自分で確認してみてください。竿(さお,火袋を乗せる台を支えるもの)には儒学者・田辺匡敕の由来記が刻銘されています。高さは丈六(1丈6尺=約4.8m)です。昭和51年10月1日塩竈市有形文化財に指定されました。

 伊達氏所縁(ゆかり)のものであることを示すのが家紋です。伊達家伯記念會(会長は,伊達氏宗家第34世・仙台藩主家第18代当主の伊達泰宗氏です。)のHPには8つの家紋が載っていますが,もっと多いとの説もあります。この文化燈籠には2つの家紋が刻まれています。まず,竪三引両です。伊達氏宗家第1世・朝宗が文治5年(1189年)源頼朝から拝領した幕紋二引両を,後代竪三引両に改め輪郭に入れて図案化し定紋としたもので,伊達氏の家紋では最も古いものです。

 次に,竹に雀です。天文11年(1542年)第14世・稙宗の息子・時宗丸(後の実元,実元の子が「伊達三傑」の一人・「武の成実」と言われた成実です。)が越後守護職・上杉定実の養子に入ることになり,その婿引出物として贈られたもので,第15世・晴宗の代から伊達氏累代の定紋(仙台笹)となりました。しかし,天文の乱(天文11年から17年まで(1542年~48年)稙宗・晴宗の内紛に伴って発生した一連の争乱)によって入嗣は立ち消えとなったのですから,本来この家紋は返還しなければならなかったはずです。

 この周宗は謎の人物です。名の読み方がはっきりしないのは,将軍に御目見(おめみえ)していないため,将軍から一字拝領(偏諱を賜う)していないからです。仙台藩主は14人いますが,一字拝領していないのは,初代・政宗,第9代・周宗,第14代・宗基の3人です。文化燈籠を奉納した文化6年周宗(14歳)は疱瘡(天然痘)に罹り,危篤になっています。その後は後遺症により公式の場に現れることなく,文化7年(1810年)諱(いみな,本名)を周宗とし,文化9年(1812年)弟・斉宗を養嗣子とし,同年17歳で隠居,ほどなく死去しています。本来であれば第11代将軍・徳川家齊(斉)から「斉」の一字を賜り,「斉〇」と名乗るはずだったのです。一説には文化6年疱瘡に罹り,そのまま死去したとされています。14歳で死去したのでは仙台藩は無嗣断絶となってしまうため,末期養子が認められる17歳まで周宗の死を3年間隠蔽したというわけです。もちろん,仮にこれが本当だとしても,公式記録に残るはずがありません。

 

探訪会(34)

 

 国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」です。青いタグが付いています。国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」と国指定天然記念物でない「鹽竈ザクラ」は,見た目はまったく同じです。カスミザクラ(霞桜)の八重咲きがスイショウザクラ(水晶桜)で,鹽竈ザクラは水晶桜の突然変異であると考えられていますが,雌蕊(めしべ)が葉化してしまうため,接ぎ木で増やします。その接ぎ木の台木が異なるのです。国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」は,台木がマザクラ(真桜)です。国指定天然記念物でない「鹽竈ザクラ」は,台木がヤマザクラ(山桜)です。山桜への接ぎ木を繰り返すと,花が山桜化してしまい,「まり(毬、鞠)のような八重桜」でなくなってしまうと言われています。また,「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」ですので,志波彦神社鹽竈神社境内にあるものに限られます。境内に27本あるようです。ただし,立入禁止区域内にあるものがあり,すべてを確認することはできません。

 なお,真桜(アオバ(青葉),アオハダ(青膚)とも言います。)を「花の咲かない桜」と言っている人がいますが,花は咲きます。接ぎ木の台木に適しているため,真桜の花を見る機会がないだけでしょう。

 

探訪会(35)

 

 「伊達綱村公顕彰碑」です。平成30年10月20日,「伊達綱村公顕彰碑除幕式」が挙行されました。綱村は「塩竈の恩人」と語り継がれて来ました。綱村の功績を後世に語り継ぐため,塩竈市民から広く協賛を得て,祭務所前に顕彰碑と解説板が建立されたのです。鹽竈神社を深く崇敬していた綱村は,寛文13年(1673年)の御舟入堀(おふないりぼり)の完成などにより経済情勢が悪化していた門前町塩竈を救うため,貞享2年(1685年)に9箇条からなる塩竈振興令を発しました。これが「貞享特令」と呼ばれるもので,年250両に及ぶ金子の下賜,年貢の免除,商売の荷物や海産物を積んだ船,仙台藩領や他領の材木を積んだ船は必ず塩竈へ入港するよう定めたことなど,異例と言える内容で,衰退していた塩竈が息を吹き返す契機となったのです。御舟入堀は,米中心の輸送路として江戸幕末までその役割を果たすこととなりました。

 なお,綱村は「塩竈の恩人」ですが,仙台にとってはどうか,意見があります。御舟入堀が建設されたことによって,松島湾から外洋へ出る必要がなくなり,仙台城下まで安全かつ大量の物資輸送が可能になったわけで,米以外の荷物を塩竈で水揚げさせるのはいかがなものかというわけです。また,綱村は第7代藩主・重村とともに,仙台藩財政を逼迫させたとの評価があります。

 

探訪会(36)

 

 鹽竈神社東神門です。日支飼料株式会社社長・片倉直人が造営費(1万5千円)を寄進し,昭和16年10月竣工したものです。日支飼料株式会社は,その後片倉飼料株式会社,片倉チッカリン株式会社,片倉コープアグリ株式会社と社名変更しています。

 

探訪会(37)

 

探訪会(38)

 

 鹽竈神社東神門へ上る階段の左側に四重塔があります。仙台市(現・青葉区)大町五丁目の梅津源右衛門が大正7年4月25日に奉納したものですが,塔がいかにも寺院っぽいのです。鹽竈神社は江戸時代まで,真言宗の法蓮寺が別当寺でした。神仏習合(混淆)と言うだけでなく,法蓮寺が鹽竈神社の社務一切を支配していたのです。しかし,神仏判然令によって明治3年廃寺となりました。それ以後である大正7年に寺院っぽい塔が奉献されているのが不思議です。もっとも,鹽竈神社東参道下にはもっと寺院っぽい五重塔がそれ以降(大正10年)に奉納されていますので,あまり拘らなくて良いのかも知れません。

 ちなみに,梅津源右衛門は「清酒醸造法」という本を書いた杜氏のようです。

 

探訪会(39)

 

 明和5年(1768年)奉納の燈籠です、この燈籠の興味深いところは,燈籠とともに田圃(たんぼ)を寄進したことが刻されていることです。燈籠を奉納されても燃料が無ければ困ります。寄進した田圃で収穫した米を売却して燃料代に充てて欲しいということでしょう。ただし,私には読めません。拓本を採って研究している方から教示されたものです。

 

探訪会(40)

 

 鹽竈神社二之鳥居です。鹽竈神社東参道,七曲坂上にあります。扁額は神社本庁統理・徳川宗敬(むねよし,水戸徳川家第12代・篤敬の二男,一橋徳川家第11代・達道の養子,一橋徳川家第12代当主)が揮毫したもので,平成21年に鋳物で更新されたとのことです。

 柱に「文政八年歳次乙酉七月丙戌朔甲未日」,「祠官 藤塚式部源知明」とあります。普通に考えれば,この鳥居は文政8年(1825年)7月1日,祠官(しかん,神職のこと,鹽竈神社別宮三禰宜)・藤塚知明の取次によって奉納されたものであるということになります。

 奉納者が商人であること,「弘化三年(1846年)三月 御額再修」されたこともわかります。「御額再修」は後年刻されたのでしょう。この「御額」が徳川宗敬揮毫のものでないことは当然です。

 謎なのは,知明は寛政12年(1800年)6月3日63歳で死去していることです。つまり,二之鳥居が奉納されたのは取次者の死後25年経ってからのことだということになります。このようなことがあるでしょうか。この点について,ある方から次のように教示されました。「社家の藤塚知明が資金を募り,寛政9年(1797年)に造立された。また,文政8年,弘化3年に補修がなされている。従って,「文政八年」とあるのは補修の年で,それ以前に刻されていたものを修正したのではないか。ただし,知明はかなり前に隠居しており,寛政10年には仏舎利事件(寛政3年から7年を費やした大事件)に関係して配流されていることから,造立に関わる余裕があったかについては疑問がある。」とのことです。

 

探訪会(41)

 

※ 「塩釜歴史探訪会(第1回)(その1)」及び「塩釜歴史探訪会(第1回)(その2)」は,探訪会で実際に取り上げなかった部分を含め大幅に拡充して記事にしています。記載内容に誤りがあれば,遠慮なく御指摘ください。

 

【8月29日(日)追記】

 「鹽竈神社表参道の斜度は,札幌市大倉山ジャンプ競技場(札幌市中央区宮の森)の斜度とほぼ同じである。」を誤った情報の例としましたが,この点について8月28日(土)T氏から「鹽竈神社表参道(表坂)上から石鳥居までの長さを測ったところ100mだったので,大倉山ジャンプ競技場のジャンプ台のアプローチとほぼ同じであると説明したもので,斜度(角度)を比較したものではない。」との話がありました、大倉山ジャンプ競技場のジャンプ台のアプローチは101m(助走路は94m)ですので,表参道上から石鳥居までの長さが100mであれば,「長さはほぼ同じ」ということになります。T氏の話を聴いた人(又聞きかも知れません。)が誤解して,誤った情報を拡散したのでしょう。

 

【10月27日(水)追記】

 鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)境内の文化燈籠(銅鉄合成燈籠)にはめ込まれている動物について,これまで「蜃(しん,気を吐く龍),獏,象,獅子,麒麟,鹿,猫,牛,鳳凰などのように見えますが,私にはよくわかりません。興味がある方は自分で確認してみてください。」と書いて来ました。

 鹽竈神社が文化燈籠について説明している「霊獣・瑞獣案内」によると,①蜃(しん),②⑪獏(ばく),③鳳凰(ほうおう),④龍(りゅう),⑤麒麟(きりん),⑥麝香猫(じゃこうねこ),⑦白澤(はくたく),⑧象(ぞう),⑨獬豸(かいち),⑩羊(ひつじ),⑫犀(さい),⑬飛龍(ひりゅう),⑭唐獅子(からじし)とのことです。

 なお,⑥については,麝香猫ではなく,九尾の狐(きゅうびのきつね)ではないかと言っている方がいます。最後に,その九尾の狐の説明・写真を添付しておきます。

 

九尾の狐

 

【令和4年7月10日(日)追記】

 長命燈について,私の大先輩であるO氏が志波彦神社鹽竈神社に問い合わせたところ,「享和元年(1801年)大阪で作り,享和3年(1803年)に大阪から運んで来て奉納された。」との説明があったとのことです。2年も要したというのが不思議ですが,そういう記録があるのでしょうか。