極私的真贋見極めノート -4ページ目
<< 前のページへ最新 | 1 | 2 | 3 | 4

うちのお袋

僕のお袋は基本的に片づけが苦手だ。

名前はヨーコさん。

多分、僕が幼稚園の頃から働き始めた。

高校の科学の実習助手という仕事。

いわゆる理科のおばちゃんだ。

当時勤めていたのは学区で2番の成績の優秀な学校。

そんな陽子さんを慕って僕が小学校のとき一人の教え子がやってきた。

ONOくんという名の教え子はアフロパーマにボンタン。

自動二輪にまたがってやってきた。

当時の言い方で言うツッパリ。

ONO君は進学校では珍しく暴走族に入っていて多分幹部たった。

僕とヒロに暴走族の刺繍のネーム入りの腕章をくれたりした。

カッコはごっつかったけど小学生の僕らにとても優しく、

僕らの知らない世界の色んな話をしてくれた。


ONO君のみならず、僕の友達らにも

ツッパリだろうが、まじめ君だろうが分け隔てなく付き合ってくれ、

結構人気者だったヨーコさん。


親父が単身赴任のとき、

思春期の荒れくれ双子と正面から向き合ってくれた母。


身長152センチ。

若かりし僕に胸ぐらを掴まれても決してひるむことなく、

湯のみを思い切り投げつけてきた母。


社会一般のものさしではなく、

自分の感覚を頼りに人と付き合い、ものを見る。


愚痴は多いし、特別賢い母ではないと思うが、

やっぱりヨーコさんからは色んなことを教えてもらったと思う。


まだ何もお返ししてなくて済みません。










通園バスのゴリラおいちゃん

1972年、僕とヒロは福岡県は太宰府市の水城幼稚園に入学した。

幼稚園の頃の記憶はそう多くはない。

友達に泣かされて、叩き返して来るまで家に入れないと母に叱られたこと。

幼稚園で小便を漏らして、代えに女物のパンツをはかされて悲しい気分になったこと。

なんか嫌な思い出ばかり浮かんでくるがそうでもない。


中でも、今でも忘れられないのが通園バスの運転手だったおじちゃん。

顔がゴリラみたいだったので僕らは皆、そのまま“ゴリラおいちゃん”と呼んでいた。

角刈りに何時も色つきのグラサン。

どう見ても一見堅気じゃないように見えるこのおいちゃんを僕らは皆大好きで、

何時もおいちゃんの横の席は取り合いだった。

バスが信号で止まると決まって

「変われ、ゴマ!」

とおいちゃんが言う。

すると信号はピタリと赤から青に変わった。

僕らは皆一様に驚き、おいちゃんのその能力に感心した。


交差する道の信号が青から赤に変わるのを見てただけの子供だましのトリック。

でも毎回おいちゃんはその演出で僕らを楽しませてくれた。


しがない幼稚園の通園バスの運転手。

でもゴリラおいちゃんは「人生を楽しむ心と余裕」を持ってたんだとおもう。

昨今の大人たち、子供にそんな接し方出来ますか?

余裕の無くなっている自分に問いかける。



焚き火・・・ゴミ焼き・・・

僕の好きなものの一つ。それが焚き火。

何か火を見ていると優しい気持ちになれたり、

集中できたり、

焚き火の火には不思議な力を感じる。


そして焚き火と言って思い出されるのが、

小学生の頃、

親父が休みの日の午後になるといつも

家の前の小さな土のスペースでゴミを焼いていた光景。

今頃妙に、懐かしく脳裏に浮かんでくるのだ。


その時に穿いているのはいつも紺色に白の三本線のジャージ。

そしていつもちょっと難しそうな顔をして

何処からか拾ってきた棒で燃えかけたゴミをいじっていた。


妙に時間がゆっくりと流れる日曜日の昼下がり。


そんな思い出も僕の焚き火好きの要因になっているのかもしれない。


そして時々娘と休日のゴミ燃やしをしたいなあなどと思うが、

いまのご時世そんなことをしようものなら、

環境破壊だ温暖化だと、目くじら立てて何を言われるかわからない。

世知辛い世の中になったねえ。

しずのばあさん

僕の父方の祖母の名はしずの。

明治生まれだが身長は165センチぐらいあり、当時は大女だったのではないかと思う。

しずのさんはとにかく僕とヒロをかわいがってくれた。

母に注意されることにもめげることなく僕らにチョコレートを買い与え、

天気のいい日には白飯にふりかけ、卵焼き程度のお弁当を作ってくれ、

僕らを近所のれんげ畑なんかに連れて出かけてくれた。

年金が入ると僕とヒロに何か買ってやりたくてたまらず、その僅かな金は何時もすぐに底を尽きた。


ただ、僕らの持ち物、靴や傘、ランドセル・・・

全てのものに目立つように大きな字で名前を書き込むのは子供心にやめて欲しかった。


今も鮮明に覚えているしずのさんとの思い出。

当時はザ・ベストテンの人気絶頂期。

その日僕はテレビの前にレコーダー付のラジカセを持って行き、

大好きなピンクレディの歌をナマ録(コードも何も接続せずテレビのスピーカーから流れてくる音をそのまま録音)していた。

そして間も無く録音が無事終了と思ったその時、

「ブッ」

大きなおならの音がした。

しずのさんだった。

当時僕は小学3年生か4年生ぐらいだったと思うがしずのさんに超激怒。

「おばあちゃんなんかどっか行け。」

などと悪態をつきまくった。

その時のしずのさんの寂しそうな顔は今でも覚えている。


しずのさん・・・

父方の祖母だといったが、実は後妻だった。

もともとは満鉄病院の小児科か何かの婦長をしていたらしいが、祖父と結婚。

父の母となった。

結局生涯子供は生まなかったようだ。

生まなかったのか生めなかったのかは判らない。


が故に僕とヒロは孫でもあり、子供のようでもあったのかもしれない。

しずのさんの布団に入って行くとたくさんの昔話を聞かせてくれた。

そして、幼い僕らがお乳をチュウチュウすると、まんざらでもない感じだったような気がする。


そんなしずのさんが亡くなったのは僕とヒロが5年生の時。

80才をとうに越え、静かにあの世へと旅立った。


それから数日後・・・。

夢にしずのさんが出てきたのだ。

夢の中のしずのさんは白い服を着て、「てっちゃん、てっちゃん」と呼びかける。

でも僕はしずのさんがもうこの世に居ないことが夢の中でもわかっていて怯えまくる。

そこで目を覚まして父と母の部屋に慌てて駆け込む。

すると・・・なんとそこにはヒロも居る。怯えた目。

やはりヒロもまるっきり同じ夢を見て両親の布団に潜り込んできていたのだ。


それから、その夢は何日も続いた。僕にもそしてヒロにも。

優しかったしずのさんだけれどもどうしても怖いし、どうしても目が覚めてしまう。

母が母方のばあちゃんに相談すると、

「毎日般若心境をあげなさい」


読み始めたその日からパッタリとその夢を見なくなった。


今は、しずのさんの僕らへのもの凄い強い思いが夢となって出たに違いないと思う。

あの時は怖がってごめんなさい。


僕は亡くなった方への一番の供養は、その方のことを忘れないことだと思う。

誰かの記憶に残っている限り、その人間は生き続ける。

そして、僕は今しずのさんの事をささやかながらこのブログに書き記す。





借家暮らし

僕が小さい頃、家族はずっと借家暮らしだった。

賃貸生活とはちょっと趣が違う。どう考えても“借家暮らし”という言葉がピンと来る生活。


2歳までの家は風呂はあったが五右衛門風呂。

熊本天草から福岡に移り住んで住んだのは6畳、4畳半、炊事場つきの共同住宅。

風呂は共同だった。


当時は高度成長期。親父の給料も少しづつ上向いていったんだろう。

家は2、3年ごとに近所で引越しを繰り返した。

少しづつ、少しづつきれいな家に。

少しづつ、少しづつ広い家に。


といっても集合住宅から、地区30年ぐらいの一軒家とか、

そこから、ちょっと新しめの一軒家とかそのていどのもの。

そして、何時も引っ越す先は平屋建てだった。

80を超えた祖母の体を考えてのことだったのか。


その中で、忘れられない一軒がある。

確か大家が平山さんとか言う人だったと思うが、家の借家の裏が大家さんのお宅だった。

そこにはジョニーという超凶暴な雑種犬が飼われており、

幼稚園時代の僕とヒロはかなりこいつに怯えていた。

時々こいつの鎖が外れている日があり、そんな日はヒロと二人で家の戸を全部締め切り、

やつの侵入を恐怖におののきながら防いだりしたような気がする。(犬が戸をあけて入ってくるわけはないのだが)

その一方、夜ご飯の残りやなんかは祖母と一緒にこのジョニーのところに持っていって食べさせていた。

その時ばかりは狂犬ジョニーも非常に大人しかったような気がする。


そんなある日、この借家を引っ越す日が来た。

とても突然だった。

母がある日突然「今度近くに引越しするけんね」

越した先はそこから歩いて5分ぐらいのやはり平屋の借家だった。

あんまり意味がないと思ったが理由は深く考えなかった。


しかし、後でヨクヨク聞いてみると

僕とヒロが壁にクレヨンで絵を描きまくったことが大家にばれたことが原因だということがわかった。

「だから小さい子が居る家族は嫌なんですよ。もううちは良いから、早くいいとこ探してください」

って感じか。


しかし、両親ともにそのことで僕ら兄弟を責めることはなかった。

その理由は良くわからない。


僕も父親になって3年前に家も持った。

やっぱり娘が子供時代の僕のように新居の柱や壁に落書きをした。

妻は青い顔をしてたが僕はあまり気にならない。

上記のような経験があるからか。

「子供だったらまっさらな壁があったら、何か描いてみたいと思って当たり前だなあ」

などと思ってしまう。





38年目の母の告白

1970年。

僕とヒロと父、母、祖母は中古のシビックに乗って、

熊本県の天草と言う島から九州の中心地福岡に向かっていた。

僕とヒロはこのとき2歳。

父が天草の真珠養殖の会社から友人のつてで福岡の海苔会社の営業職に転職したのだ。

その時のシビックは相当ボロで途中何度もエンストしたらしい。


この時、僕ら兄弟は何もわからぬまま福岡に向かっていたのだが、

熊本の超田舎から大都市福岡に出、新たな生活を始めるにあたり

両親は相当ドキドキしていたらしい。


この時から凡そ35年。

僕も37才で15年勤め上げた会社をやめ、転職した。

転職した先は同じ業界で元の会社から歩いて10分。

しかし、30代後半での転職は当初考えていた以上に精神的にこたえた。


テレビ番組作りは集団作業であり、

やはり、僕というディレクターの癖や目指すものをわかっている仲間たちとの作業だった。

それが仲間が一人も居ないところからのスタート。

この業界に入ったADの頃のように、

朝の通勤途中、缶コーヒーを買って、公園でタバコを吸いながら自らに、

「がんばれ、きっと今日は良いことがある」と暗示をかけながら出勤するという日々が続いていた。


そんなある日のお袋からの電話。

還暦を過ぎたお袋が息子に・・・

「あんたイ○ポになっとらんね?」

思わず「えっ?」

大丈夫だと言うことを伝えると同時に

普段シモネタなどほとんど口にしないお袋が何故そんなことを言ったのか問い返すと・・・。

「お父さんあんた達が子供の頃、福岡に転職で出てきたとき一時そうなったとよ」


いつも強く、怖かった父。

実は色んなことにドキドキしながら、それでも歯を食いしばって一歩一歩前へ進んでいってたんだ。

ちょっと勇気付けられながらも何か複雑な感じの、

母からの38年目の告白だった。


「マーブルチョコレート=ばあちゃんの高血圧の薬、テツ、植物人間危機一髪」


少年時代のうちの家族は僕と、一卵性の双子の弟ヒロ、

それに怖い親父とそそっかしい母親、そしてばあちゃんの5人。


生まれてから2歳まで過ごしたのが熊本県にある天草という島の牛深という小さな漁村。

家の前は道でその向こうは海だった。

当時親父は真珠の養殖会社で現場監督のようなことをしていて月給は1万円そこそこだったと聞いた気がする。

1960年代後半。もちろん物価も安かったに違いないが、

親父の給料は僕ら二人のミルク代で終わり。

あとはばあちゃんが近所で魚の頭取りを手伝って入れた僅かな金が一家の収入源だった。

当時のことを母親に聞いても

「あの頃はどうやってやりくりしてたのかわからん。どうやって食べていきよったとかね?」

と答えるのみ。

近所で獲れた魚を貰ったりして凌いでたんかなあなどと推測する

この頃はチロルチョコが今売ってるサイズのものが三連に連なっていて、10円だった。

お袋は僕ら双子にお菓子を食べさせるのを嫌がっていたそうだが、

そんなおふくろの目を盗んでチョコや飴を買い与えていたのがばあちゃんだった。

「お母さんに言ったらいかんよ」

と言いながら買ってくれていた記憶がある。


そんなある日、まだ2歳の僕の身に事件は起こった。

僕の記憶の中には一枚の映像のみが今も焼きついている。


親父に運ばれる僕。

ふと横を見るとヒロが白黒テレビに映る「キャプテンウルトラ」を夢中になって見ている。

そこで記憶は途切れる。


これから先はあとから両親に聞いた話。

その日の夕刻、僕はフラフラになって倒れた。

お袋がフラフラになった僕に問いただしたところ、

「マーブルチョコ食べた」

と答えた。

当時既に販売していたマーブルチョコは円筒の入れ物に入っていて、

蓋を開けるとピンクや緑、黄色の飴のようなものでコーティングされたチョコレートが沢山入っていた。

ばあちゃんがたまに買ってくれていて僕は既にその美味しさの虜になっていた。


その日、僕はそのマーブルチョコが台所の床に一粒落ちているのを発見し、即座に口に放り込んだのだ。


しかし、それが悲劇だった。

実は僕がその時口に入れたのはなんとばあちゃんの血圧を下げる薬だったのだ。

もちろん薬だからマーブルチョコよりは一回り小さい。

しかし、卑しい僕は迷わずに口に入れた。

老人の血圧の薬だから2歳の僕には恐ろしく強い。


その後、フラフラの僕を抱き、病院に駆け込んだ親父が医師に事情を説明したところ、

帰ってきた言葉は、

「大変残念ですが、植物人間になる可能性がある」

との残酷な言葉。

とりあえず胃洗浄をし、待つこと数十分、

意識を取り戻したもののうつろな視線のままの僕。

心配そうな親父の目の前で、医者が僕の目の前に差し出したもの。

それは・・・飴玉だった。

飴玉に反応した僕は即座にそれを掴み取り口に入れた。


医者は親父に一言、「もう大丈夫です」。

親父の目には涙・・・だったのかどうかは良くわからない。


とりあえず僕は復活。

再び、波乱万丈の人生を歩んでいくことになる。


ちなみに38歳になった今も、お菓子はそんなに食べないが、

食い意地が張っている点はこの頃と変わらない。



テツ&ヒロ誕生

1968年、ボンカレーと人生ゲームがこの世に登場し、

円谷幸吉とマーチンルーサーキングがこの世を去った年に僕は生を受けた。


体重は1900グラムの未熟児。

母親には確か未熟児用の保育器に入ったように言われた気がする。

もちろんそんな記憶は僕には無い。


この時、僕は一人で生まれてきたかというとそうではない。

5分遅れでもう一匹お袋の腹から似たようなのが飛び出してきたのだ。

体重は1800グラム。やはり僕と同じく未熟児。

名前はヒロ。

後に僕の最大のライバルとなり、最高の友となる双子の弟である。


読者の方は今、これからか弱い未熟児双子の物語が始まるとお思いでしょうが

それは大間違い。

誕生から1年後の町の子供検診。

キチガイのようにミルクを飲まされまくった僕とヒロは

ななな・・・なんと。

その町の健康赤ちゃんの特等と一等をとり、ナンバー1,2健康児になってしまうのだ。


さあ、僕とヒロのグレートでワンダフルな物語の始まり。

次回のタイトルは「マーブルチョコレート=ばあちゃんの高血圧の薬、テツ、植物人間危機一髪」

お楽しみに!!



<< 前のページへ最新 | 1 | 2 | 3 | 4