堅田散策記(後編) | 鉄道で行く旅

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堅田散策記の後編です。

 

堅田十六夜(いざよい)の弁碑です。

1691年8月16日、松尾芭蕉は義仲寺で月見の俳席の翌日、十六夜の月を楽しむため船で堅田に赴き、門人の家で遊びました。そして、盛況だったこの夜の俳席の様を、俳文「堅田十六夜の弁」として残しました。満月寺浮御堂の見える岸辺に俳文を刻んだ碑が建てられています。

錠明けて月さし入れよ浮御堂
やすやすと出でていざよふ月の雲

 

堅田付近の地図です。

 

湖族の郷文学碑「城山三郎」です。昭和43年(1968年)「別冊文芸春秋」に掲載された城山三郎の小説「予科練一歩の距離」に堅田が登場します。その記念の地に碑が建立されています。

 

伊豆神社です。

伊豆神社の祭神は大山祇命(おおやまずみのみこと)です。中世に琵琶湖の水運に絶大な特権をもっていた堅田の総鎮守になります。当社は寛平4年(892年)、延暦寺の僧・尊意が伊豆大権現を移してまつったことに由来します。

 

浮御堂(満月寺)です。

 

滋賀県の浮御堂は平安時代に恵心僧都源信が琵琶湖の湖上安全と衆生済度のため、湖中に仏閣を建立したとされています。臨済宗大徳寺派の寺院です。現在の建物は、昭和9年(1934年)の室戸台風で倒壊してしまった後、昭和12年(1937年)に再建されたものです。柱は鉄筋コンクリート製になっていますが、昔の情緒を残しています。
湖中に浮かぶお堂の景観の素晴らしさは、近江八景「堅田の落雁」で名高く、松尾芭蕉はじめ多くの人々に愛され続けてきました。

 

浮御堂の入口です。

 

浮御堂を拝観しました。

 

若一光司氏の「琵琶湖遊行(京阪電気鉄道1997年刊行)」です。掲載写真には、浮御堂も登場していました。

この浮御堂の写真の京阪電車ポスター掲載年月は1991年10月でした。

 

浮御堂は過去にも何回か拝観しています。

 

浮御堂から見た琵琶湖です。白鬚神社(2023年10月参拝)と同じで、台湾人の観光客が多かったと思いました。

 

浮御堂で知られている臨済宗満月寺の本堂である観音堂です。入母屋造の三間堂で内部は瓦の四半敷とし、本尊木造聖観音座像(重要文化財)を安置しています。近年の修理で正面の柱間装置を変更し、向拝を増設するなどの変更はありますが、湖上の浮御堂とともに一体の寺観を構成しています。

 

満月寺の茶室である玉鈎亭(ぎょくこうてい)です。

昭和9年(1934年)の室戸台風で倒壊した前・浮御堂の古材を天井などの一部に用いて建築されたものです。昭和63年(1988年)に客殿南から現在地に移築されました。七畳下座床の席と四畳向切枡床の席が水屋を介して繋がっていましたが、移築に伴い水屋が撤去されました。現在は2席が東西に接し、棟をL型に連ねています。

 

浮御堂付近で見た和舟です。

 

光徳寺は、近江八景の一つ「堅田の落雁」で有名な満月寺浮御堂のそばにある、真宗大谷派の寺院です。この寺院には「蓮如上人御旧跡」として、壮絶な信仰の証が残されています。

 

祥瑞寺(しょうずいじ)は臨済宗大徳寺派の寺院です。室町時代の応永年間(1394年~1428年)に京都大徳寺の僧・華叟宗曇(かそうそうどん)が開いた寺院です。

 

本福寺は浄土真宗本願寺派の寺院です。この寺の開基は、鎌倉時代後期の正和年間に滋賀県野洲郡御上神社の神職であった善道が、本願寺第三代門主覚如上人の御教化を受け、浄土真宗に帰依し、念仏の道場を開いたこととされています。

 

湖族の郷資料館です。

 

日本キリスト教団堅田教会です。この教会の建物はウィリアム・メレル・ヴォーリズによって手掛けられたものです。現在は登録有形文化財になっています。

 

この日の昼食で利用したアル・プラザ堅田です。

 

 

アル・プラザ堅田の3階にある「そば処近江路」に入りました。

 

この日の昼食の「親子丼セット」です。

 

(参考画像)2023年10月10日にアル・プラザ堅田3階のフードコートのスガキヤで頂いた野菜ラーメンです。

 

堅田駅から新快速で大阪駅まで帰りました。

(おわり)

 

カップ入りゼリーの好きな味は?

コーヒーゼリーです。

神鉄

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