星田の「家康ひそみの籔」 | 鉄道で行く旅

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星田公園に行ったついでに、星田にある「伝 家康ひそみの籔」を見に行きました。

撮影日は2023年12月12日です。

 

星田公園を後にして星田妙見宮方面に向かいました。

 

「すぐ 星田妙見道」の道標です。弘化2年(1845年)の建立です。

 

ここは手書きの道標でした。

 

古い道標がありました。「大坂 妙見 道」の文字が刻まれていました。弘化2年(1845年)の建立です。

 

道なりに進んでいきます。と言いながらも、スマートフォンのマップを頼りにして歩いています。

 

星田公園から「伝 家康ひそみの籔」に向かったときに確認していた地図です。

 

妙見河原(星田妙見川)の桜並木です。地元では桜の名所ということでした。

 

交野市立妙見坂小学校(1974年設立)のグラウンド付近の紅葉です。

 

「大坂夏の陣 家康公出陣の地 星田」の幟が建っていますので、目的地は近いようです。

 

「伝 家康ひそみの籔」の地に着いたところです。

 

本能寺の変が起きたとき、堺に滞在していた家康も明智光秀に命を狙われること になりました。明智軍や落ち武者狩りからの逃亡の難しさに、一時は自刃も考えたほどの大ピンチです。自刃は思いとどまり、「神君伊賀越え」と呼ばれる長い逃亡の末、無事に三河へ帰還した家康。その時のルートに交野の星田を通っているのです。しかも単に通っただけではなく、竹やぶで身を潜め、星田の庄屋だった平井家が脱出の手助けをしたと伝わっています。もし、逃避行中に家康が討たれていたら…と、考えると星田が果たした役割は重要なものだったと言えます。(出典:交野市の広報紙)

 

交野古文化同好会による「伝 家康ひそみの籔」の説明板です。

「伝 家康ひそみの籔」が天正10年(1582年)6月のことであり、大坂夏の陣の「旗掛け松」が慶長20年(1615年)5月のことでした。

天正十年(1582年)6月2日 織田信長が京都本能寺において、明智光秀の反逆によって自害した。その時、少人数の近臣を連れて堺に滞在していた徳川家康は、いち早くその情報を入手するや身の危険を感じ即刻、堺を出て本国三河へ帰ることにした。 
その日の深夜 家康はこの竹やぶにひそみ、村の長の平井氏に連絡して、山城方面に出るため、道に精通する農民を道案内人として出すよう依頼した。 
平井家では、沢山の握り飯を鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける二人の農民を選出して、無事に道案内の大役を果たさせたといわれている。(交野古文化同好会)

 

「伝 家康ひそみの籔」の石碑と竹籔です。

本能寺の変の逃走1日目、家康は平野から阿倍野を通り、飯盛山(大東市~四條畷市)を超えて交野の星田にたどり着きます。家康一行はそこでとある藪に身を潜め、星田の庄屋(村長)の平井清貞に助けを求めました。助けを求められた平井家は、急いで大量の握り飯を家康一行へ差し入れました。さらに、村内から信頼できる「沙弥安(しゃみやす)」と、見識が高いことから「けんしき」と呼ばれたという村人2名を案内人として派遣し、家康一行を飯岡(京田辺市)まで無事に送り届けたと伝わっています。

この伝承は、当時の古文書にはみられず、伝承が生まれた時期など詳細は不明ですが、大阪(大坂)で伊賀越え伝承が残ること自体とても珍しく、家康を助けたという星田の人々の強い自負があったことは間違いないでしょう。 これらの伝承は、星田の郷土史家の故・西井長和さんが『徳川家康伊賀逃走記』という著書で紹介しています。なぜ家康が平井家を頼ったのかは伝承の中でも説明されていませんが、平井家は家康が治めている三河出身の一族ですので、そのつながりで家康と知り合いであったのではないかともいわれます。出典:交野市「今こそ家康推し!家康公大坂夏の陣記念プロジェクト2023」

 

【交野】歴史変えた家康の逃避行!家康ひそみの薮(籔)をさんぽ。【散歩】 (交野さんぽ。)

 

2020年3月24日に近鉄特急ひのとりから見た車窓風景です。

長良・揖斐川の橋梁が見えてきました。いつものことながら「伊賀越(神君伊賀越えにあやかる社名と思われる醤油や味噌などの食品メーカー)」の看板が見えています。

 

 

”伊賀越”の由来
『伊賀の郷』は、古都奈良・京都に隣接し、当時より都との交流が深いところでございました。
戦国の世、本能寺の変で徳川家康が、明智方の追手からのがれ急ぎ堺から三河に戻る途中、伊賀忍者の先導を受け「甲賀のくに」と「伊賀のくに」の、険しい山中を越えてまさしく“伊賀越え”をしたことが歴史に残っております。
江戸の時代になると、松尾芭蕉が伊賀の城下で武士の子として生まれ、そののち、江戸に出て俳聖芭蕉として俳句を一般の人々に普及させた芭蕉生誕の地としても伊賀は知られる事になりました。
また、荒木又衛門の伊賀越仇討は日本三代仇討の一つで、江戸時代より歌舞伎で伊賀越中双六として演じられております。
弊社『伊賀越』の社名はこのような時代背景が由来となっております。

(つづく)