愛知県の旅(名古屋城本丸御殿編) | 鉄道で行く旅

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愛知県の旅の後編です。トヨタ博物館を見た後、名古屋市内の名古屋城本丸御殿を見に行きました。

(旅行日は2022年5月6日です)

芸大通駅から、リニモ(愛知高速交通東部丘陵線)のクロスシート席に座って、藤が丘駅へ。

 

藤が丘駅から名古屋市営地下鉄東山線で栄駅に向かいました。

 

昼食時間になりましたので、栄駅から「山本屋総本家 本家」まで歩きました。ところが、この日は「山本屋総本家 本家」が大型連休中の振替休業日でした。

そのため、「山本屋総本家 本家」ではなく、「山本屋本店 栄中央店」で名古屋コーチン入り味噌煮込みうどんを食べました。

 

栄駅から名古屋市営地下鉄の名城線に乗り、市役所駅(2023年1月4日から名古屋城駅)で下車しました。

それにしても名古屋市営地下鉄の車体の広告は「高須クリニック」の広告が際立って多いです。

 

金シャチ横丁(東門エリア)義直ゾーン・宗春ゾーンにあった「名城 金鯱水」です。

これは、名古屋市上下水道局が「日本一 安心・安全でおいしい水道水を飲んでいただく機会を増やすため設置した」、マイボトル対応冷水機です。

 

清正公 石曳きの像です。

【清正の石曳】

(名古屋城の)天守の石垣普請は、加藤清正に割り当てられた。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられている。本像は、その様子を模したもの。

 

たいへん立派な名古屋城の石垣と名古屋城・東南隅櫓(重要文化財)です。

穴太衆(あのうしゅう:石積みの専門職)の名人といわれた粟田万喜三さん(1911年~1989年)が、「最もよくできていた石垣は名古屋城の石垣」と言っていました。

 

名古屋城の天守閣です。「天守閣木造復元事業」のため、2022年5月現在、名古屋城天守閣は公開されていません。

 

この日は、名古屋城本丸御殿を見学しました。

 

名古屋城本丸御殿

【名古屋城本丸御殿の説明】

名古屋城本丸御殿は、1615年(慶長20年)に、尾張藩主の住居かつ藩の政庁として建てられたものです。日本を代表する書院造の建物でした。近世城郭御殿の最高傑作とうたわれ、城郭では天守閣とともに国宝第一号に指定されました。1945年(昭和20年)の空襲により惜しくも焼失しましたが、江戸時代の図面など貴重な史料をもとに正確に復元工事を進め、2018年(平成30年)、絢爛豪華な往時の姿が蘇りました。

 

名古屋城本丸御殿の内部です。写真撮影が認められていました。(フラッシュ撮影は禁止です)

本丸御殿の玄関・一之間です。

 

名古屋城本丸御殿の見学方法は、城郭御殿として名古屋城本丸御殿と双璧を成している京都・二条城二の丸御殿と似ています。

(参考情報)京都・二条城二の丸御殿を見学したことがありますが、二の丸御殿内部の写真撮影は禁止されていました。

 

竹林豹虎図

大廊下に飾ってあった竹林豹虎図(重要文化財)のレプリカです。

 

表書院

1615年(慶長20)の創建時には、最大かつ最も格式の高い間として正式に藩主に謁見する際に用いられました。屋根や庇(ひさし)を上下四方に設けた大きな入母屋造(いりもやづくり)の建物です。上段之間(15畳)、一之間(24畳)、二之間(24畳)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の5部屋からなり、江戸時代には広間と呼ばれていました。上段之間は藩主の徳川義直が座る部屋で、床(とこ)と違棚(ちがいだな)、廊下側に張り出した出窓のような付書院(つけしょいん)、華麗な襖絵(ふすまえ)からなる帳台構(ちょうだいがまえ)といった正式の座敷飾りを揃えています。

表書院・三之間

 

表書院・一之間

 

表書院・上段之間

 

対面所

【対面所の説明】

藩主が身内や家臣との私的な対面や宴席に用いた部屋です。上段之間(18畳)、次之間(18畳)、納戸(なんど)一之間(24畳)、納戸(なんど)二之間(24畳)の4部屋で構成されています。上段之間及び次之間の障壁画は、「風俗図」と呼ばれ、京都や和歌山の四季の風物や名所、風俗がおだやかな筆致で描かれています。絵師は狩野甚之丞(かのうじんのじょう)と推定されています。黒漆塗(しっくい)の天井板に金箔が貼られた、なんとも豪華な折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)も見どころです。

江戸時代初期に完成したといわれる武家風書院造という建築様式には武家文化の粋が息づいています。

 

対面所・上段之間です。「黒漆二重折上げ小組格天井」が素晴らしかったです。

 

上洛殿

1634年(寛永11)、三代将軍家光が京都に向かう途中、名古屋城に宿泊します。それに先立ち増築されたのが、本丸御殿で最も絢爛豪華な「上洛殿」です。家光の部屋となった上段之間(15畳)をはじめ、一之間(18畳)、二之間(22畳)、三之間(21畳)、松之間(20畳)、納戸之間(10畳)からなり、室内の装飾は狩野派(かのうは)による襖絵(ふすまえ)・天井板絵、きらびやかな彫刻欄間、飾金具など、細部まで贅の限りが尽くされました。中でも、当時33歳の狩野探幽(かのうたんゆう)によって描かれた「帝鑑図(ていかんず)」や「雪中梅竹鳥図(せっちゅうばいちくちょうず)」などは、傑作とされています。

上洛殿・三之間です。

 

(↓徳川記念財団による解説を参考にした「徳川将軍家の上洛」についての説明です)

江戸時代になり、政治の中心が江戸に移りますが、徳川家は上洛を定期的に行います。朝廷から将軍宣下を受けるために上洛し、二条城に宿城しました。将軍の上洛は、大軍を率いて、将軍の武威や権勢を示すための一大デモンストレーションとして、重要な催しでした。しかし、寛永11年(1634)7月の3代将軍・家光が行った上洛を最後に、将軍の上洛は中絶します。その背景の一つには、日光の重要性が高まり、上洛よりも日光社参を積極的に行ったことが挙げられます。上洛が再開するのは、14代将軍・家茂が行った、文久3年(1863)のことです。家茂は、長州出兵を行った文久4年と慶応元年(1865)にも上洛をしました。

上洛殿・上段之間です。

 

上洛殿・上段之間の絢爛豪華な「黒漆二重折上げ蒔絵付格天井」を見ることができ、感動しました。

 

彫刻欄間

上洛殿の廊下にある彫刻欄間です。

 

大満足だった名古屋城本丸御殿の見学でした。

 

名古屋城本丸御殿のミュージアムショップです。

金箔類の土産品は、私には、ちょっと高価すぎて手が出ませんでした。結局、ここでは何も買いませんでした。

 

ミュージアムショップではなく、従来からある土産物店で「名古屋城はんこ入れ」を購入しました。名古屋城天守閣部分の高さは5㎝ぐらいです。これは台湾製の商品でした。

 

名古屋市営地下鉄の名城線と桜通線を乗り継いで名古屋駅へ。

やっぱり地下鉄の車体に「高須クリニック」の広告が貼ってありました。

 

近鉄名古屋駅から「特急ひのとり」で大阪難波駅に帰りました。

 

2回目になる「特急ひのとり」への乗車ですが、今回もプレミアム車両を利用しました。

 

「特急ひのとり」から見た中川短絡線の車窓風景です。

『鉄道Youtuber スーツ(氏)絶賛!! 中川短絡線(三角柱の別面は中川デルタ線の文字)』の看板も撮影しました。

 

二上山が見えてくると、もうすぐ大阪です。

 

大阪難波駅に到着した「特急ひのとり」です。

(おわり)