稗田環濠集落を歩く(前編) | 鉄道で行く旅

鉄道で行く旅

鉄道旅行を中心としたブログ記事を投稿しています。

奈良県大和郡山市の稗田環濠(ひえだかんごう)集落を歩くの前編です。(撮影日は2021年12月22日です)

奈良県内には環濠集落の跡地が多いのですが、稗田環濠集落は集落の周囲の環濠が昔のまま残っている貴重な場所です。

JR難波駅から大和路線(関西本線)の快速電車に乗車しました。

 

快速電車(221系)の車内です。

 

(参考画像) 昔の関西本線とキハ35系

1972年頃に法隆寺駅で撮影した非電化時代の関西本線のキハ35系ディーゼルカーです。

関西本線の奈良駅~湊町駅(現在のJR難波駅)間が電化されたのは1973年10月1日でした。

 

1972年に撮影した天王寺駅関西本線ホームとキハ35系です。左側に南海天王寺支線の電車が写っています。

この当時の関西本線は大阪方の通勤区間でさえもローカル線の雰囲気が濃厚でした。

 

キハ35系は、車両の構造が簡素なことと、ロングシート車ということで、レールファンはもちろんのことですが普通の乗客にも不評だった車両です。この車両による長時間移動は苦痛に感じたものでした。(1972年・柘植駅)

 

1971年に運行されたキハ35系による湊町発亀山行の「柳生号」です。D51が牽引した柳生号もあったのですが、そちらは撮っていませんでした。

1971年のNHK大河ドラマ「春の坂道(柳生但馬守宗矩の生涯を描いた作品)」のときに「柳生ブーム」が起こったことも、当時を知る人には、懐かしい思い出です。

 

今回の旅に戻ります。

JR郡山駅(奈良県)で快速電車から下車しました。

 

大和路線の郡山駅の駅舎です。この郡山駅の橋上駅舎ができたのは1997年(平成9年)2月27日でした。

 

郡山駅と稗田環濠集落の位置関係を示す地図です。郡山駅から稗田環濠集落の中心部までの距離は片道で1.5kmぐらいです。

 

郡山駅から稗田町まで歩きます。

郡山駅から少し南下したところにある県道144号線を東に進んで行きました。

 

佐保川を渡ります。大和郡山市内を流れる佐保川は奈良市内よりも下流になります。

 

ファミリーマート郡山下三橋店のところで右折しました。この後は、真っ直ぐ南向きに進みます。

 

地蔵院川を渡ります。地蔵院川は佐保川の支流で、奈良県奈良市と大和郡山市を流れています。
地蔵院川は、この先の下流で佐保川左岸と合流します。

 

駅周辺の住宅地が途切れると、もうすぐ稗田環濠集落です。

 

大和郡山市指定史跡「稗田環濠及び集落」の立札です。

稗田環濠は、大和の環濠の代表例として有名であり、教科書などにもよく記述されています。古文書などの史料があまり残されていないのでどのように形成されたのか詳しいことはわかっていませんが、室町時代には現在のような形になっていたと考えられています。

 

環濠を渡って稗田集落に入っていきます。一般的に環濠集落の濠の目的は、自衛のための防御機能だと言われています。

 

環濠集落の全体の規模は、東西方向が約260メートル、南北方向も約260メートルです。(出典:国土地理院の空中写真)

 

稗田集落の風景です。環濠集落の道は防御に適した構造のため、遠くが見通しにくい道になっています。

 

集落の中にある常楽寺(融通念佛宗)です。

 

環濠集落内の寺や神社は、外敵との戦いの際に砦になる集落内の重要な場所でした。

 

寺院の創建は1376年(永和2年)ということですが、この建物は新しいようです。

 

稗田の地蔵尊です。地元の人々により大切に守られているようでした。

 

稗田には四方の環濠がすべて残っていますので、現在でも集落に入る道は特定の場所に限られています。

環濠に架かる橋も、昔は木橋や跳ね上げ橋で容易に外との交通を遮断することができたということです。

 

賣太(めた)神社の南側の環濠です。この後、賣太神社に向かいます。

(つづく)