内田百間のゆかりの地を歩く(2000年6月) | 鉄道で行く旅

鉄道で行く旅

鉄道旅行を中心としたブログ記事を投稿しています。

今回は作家の内田百間の故郷である岡山を歩いたときの画像です。(2000年6月の撮影なので現状とは違う可能性もあります)

今回の投稿は2000年当時に書いておいた備忘録の内容をそのまま記事にしております。

 

内田百間(1889年~1971年、本名は栄造、また百鬼園とも称す)岡山県生まれ。旧制六高から東京帝国大学独文学科に進学。漱石門下となる。卒業後、陸軍士官学校教授、横須賀海軍機関学校教官、法政大学教授などの傍ら創作活動を続けた。「阿房列車」のほかに「旅順入城式」、「サラサーテの盤」、「東京焼尽」、「ノラや」、「東海道刈谷駅」など数多くの作品がある。筝曲家宮城道雄との親交も有名。また黒澤明監督の映画「まあだだよ」でも知られる。

(注)「うちだ ひゃっけん」の「けん」の字は、「もんがまえ」に「月」が正しい字なのですが、JISコードに入っていないため、代用で「間」の文字を使っています。

東岡山駅(1961年に西大寺駅から改称)は、内田百間(うちだ ひゃっけん)が2歳ぐらいのときに「長岡駅」として開業しましたが、百間が中学生のころ、「西大寺駅」という駅名に変わりました。百間は、たびたび自転車でこの駅までやってきて、通過列車を眺めたということです。

 

(通過列車/内田百間から)
乗りつけた自転車を待合室の入口に置いて改札の柵につかまり時計を見くらべて時刻を待つ。大概さう云う時には待合室にはだれもいない。辺りがしんとして、ただ駅員の部屋の中から時時かちかちと云う電信の音が聞こえるばかりである。遠くから轟轟と云う物音が風の響きの様に伝はつて来る。響きが段段に近づいて、近づくと共に非常な勢ひで大きくなる。改札の前の線路がかたんかたんと鳴り出す。つかまっている改札の柵がびりびりと振動し身体が揺られる様な気持ちのする目の前を大きな機関車が一瞬の間に通り過ぎる。その後に沢山の窓がちらちらと横走りに走る。呼吸を詰める間もなく行ってしまつて目の前がぱつと明かるくなり、線路がまたかたんかたんと鳴る。ほつとして改札を離れ自転車に乗つて帰つて来る。野路を走る途途(みちみち)、今目の前に見た壮大な光景を何度も心の裡(うち)に繰り返してたんのうする。又来て見ようと思ふ。

 

(鹿児島阿房列車/内田百間から)
砂塵をあげて西大寺駅(現在の東岡山駅)を通過した。ぢきに百間川の鉄橋である。自分でそんな事を云ひたくないけれど、山系は昔から私の愛読者である。ゆかりの百間土手を今この汽車が横切るのだから、一寸(ちょっと)一言教えて置かうと思ふ。(中略)
「すぐ百間川の鉄橋なんだけれどね」
「はあ」
「そら、ここなんだよ」
「はあ」
解つたのか、解らないのか解らない内に、百間川の鉄橋を渡つて、次の旭川の鉄橋に近づいた。

 

(不知火阿房列車/内田百間から)
岡山は私の生れ故郷でなつかしい。しかしちつとも省(かえりみ)る事なしに何十年か過ぎた。今思い出す一番の最近は、大正十ニ年の関東大震災の十ニ年経った時と、もっとも近いのは今度の戦争の直前のことであるが、その時は岡山に二時間あまりしかいなかった。<引用者注:二時間というのは恩師の葬儀である>(中略)
時時汽車で岡山を通る時は、夜半や夜明けでない限り、車室から出てホームに降り改札の所へ行って駅の外を見る。改札の柵に手を突き、眺め廻して見る景色は、旅の途中のどこか知らない町の様子と変るところはない。どこにも昔の面影は残っていない。

 

岡山電気軌道の電車です。

 

「若松」という寿司屋に入り、「岡山寿司」を注文しました。画像のように、エビ、タコ、アナゴ、ママカリ、シャコ、サーモンなどが盛りつけられていました。
「岡山寿司」は「祭寿司」とも呼ばれますが、そもそもは池田光政公が出した一汁一菜の倹約令に対する反動だったもので、「祭りのときぐらいは豪華にいこう」と祭りを理由に庶民たちが超豪華な「ばら寿司」を作り出したのが岡山寿司の始まりといわれています。

 

百間の生家に近い相生橋付近から見た烏城(岡山城)です。

 

旧制六高は岡山大学になったはず」という考えそのものは正しいのですが、敷地は全く別の話です。岡山大学は旧帝国陸軍第17師団の跡地に建てられ、六高の跡地は岡山朝日高校になっています。百間は旧制岡山中学校から六高に進学していますから、どちらにせよ岡山朝日高校と縁が深いといえます。 

 

内田百間の生家は今はありません。百間は古京町の造り酒屋「志保屋」の一人息子として明治22年(1889年)に生まれました。百間が16歳のとき、父久吉が亡くなり家業が傾いたといわれています。
百間は「岡山は、ちつとも省(かえりみ)る事なしに何十年か過ぎた」といっていますが、これは生家を失ったためなのでしょう。
その百間の生家付近を歩いてみました。清酒の醸造に適した立地条件なのか画像のような醸造元がありました。

 

内田百間生家跡の記念碑です。碑文の字の輪郭部分が剥落しており読みにくいのですが「木蓮や 塀の外吹く 俄風」(百間)と書いてありました。

 

相生橋から、左岸(東)を下ったところに写真の公園がありました。「内田百間記念碑園」と書かれてはいますが、百間の碑というより写真奥の石垣を含めた一種のモダンアートのようでした。
石垣の一部に小さな文字が彫ってあり、よく見ると
「春風や 川浪高く 道をひたし」(百間)という句と、
「私は古京町の生れであって 古京町には後楽園がある 子供の頃から朝は丹頂の鶴の けれい、けれいと鳴きわたる 声で目をさました。」という文字が彫られていました。

 

京橋の西側に、大手饅頭の伊部屋の本店があります。大手饅頭は百鬼園先生(百間先生の別名)の大好物でした。この伊部屋は天保八年創業の老舗で、大手饅頭は備前藩主の池田侯の寵愛を受け、店の近くにあった大手門にちなんで「大手」の名を授かったといわれています。店の屋号も池田侯が茶席で愛用した伊部焼と関係があるそうです。

 

「大手まんぢゅう」の広告電車です。

 

帰りの山陽新幹線の車内でいただいた「大手まんぢゅう」です。

(おわり)