静岡の清水を歩く(2000年2月) | 鉄道で行く旅

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今回は、作家の村松友視さんの事実上の故郷である旧清水市(現在の静岡市清水区)を旅したときの画像です。

2000年当時のJR清水駅です。

 

清水駅前銀座です。

 

清水駅前から路線バスで羽衣の松を見に行きました。

 

三保の松原の中にある御穂(みほ)神社です。

 

国鉄清水港線の廃線跡です。折戸駅の跡地です。

 

清水港線は1984年(昭和59年)3月31日に廃線となった旧国鉄路線です。この路線は国鉄末期では珍しくなっていた貨客混合列車、それに運行本数の少なさでレールファンに知られていました。乗客は東海大学付属高校の生徒や三保あたりの工場の工員が中心だったそうです。

 

廃線跡に保存されていた旧国鉄の車両です。

KATOの8tクラスのスイッチャー(貨車移動機)と清水港線で活躍したスハフ42でしたが、その後、解体された模様です。

 

ここに保存されている電車は静岡鉄道清水市内線の車両です。この車両は新清水~波止場、横砂~港橋を走っていましたが、1974年7月の七夕洪水で路線が破壊されて運転休止となり、お別れ電車が走ることもないまま1975年3月に廃止の手続きが取られました。

この車両は、その後、富山県で保存されていましたが、静岡県清水区に戻され、本格的な修復を受けた上で公開される予定とのことです。

 

巴川の最下流に架かる巴橋から上流を眺めたところです。
清水港線の鉄橋は、この反対側の下流にあったらしいです。それも昇降式の可動橋だったのでした。

 

村松友視さんの小説「巴川」から
五代目は、百年の伝統を誇る清水一家を、昭和41年(1966年)11月13日「これも時節だと涙をのんで」解散に踏み切ったという。つまり、清水一家はそこで消滅してしまった・・

 

清水の次郎長は、さくらももこさんの「ちびまる子ちゃん」にもよく出てきます。

たしか、「清水っ子は次郎長の心意気を受け継いでいる」というようなことが「ちびまる子ちゃん」に書かれていたと思います。

 

次郎長の墓がある梅蔭寺です。

 

巴川の甲州廻米置場跡です。ここは江戸時代に甲州や信州からの年貢米が集められた場所です。

 

富士見橋

小説「巴川」から
富士見橋はいまの波止場にあたる向島に、しだいに民家が増え交通量が増したため、明治18年有志の寄付金によって架設されたらしい。おそらく、この橋の上が富士山を眺望するのに適している位置だというので、富士見橋の名がついたのだろう。

(晴れてよし曇りてもよし富士の山もとの姿は変らざりけり、か)
村木は、山岡鉄舟が詠んだという歌を口ずさんだ。

 

八千代橋

小説「巴川」から

村木の父は、村木が生まれる直前に上海で客死していた。そのとき父は28歳の若さであり、その遺骨を抱いて日本に帰った母は、おなかに3カ月の子を宿していた。子供が生まれたあと、母はその子を村木家に残して他家へと嫁いで行った。そして、村木は祖父母の籍に入れられ、ずっと清水で育ったのだった。

(俺がいちばん多く渡った橋は、たぶん八千代橋だろうな・・)

祖父につづいて祖母が死んで清水の家がなくなった。

 

水神社

小説「巴川」から

羽衣橋、港橋、万世橋、八千代橋、富士見橋、千歳橋、大正橋、柳橋、稚児橋、巴川橋、久保橋、渋川橋、能島橋、堀込橋・・村木隆一は、巴川に架った橋の名を、いろは歌留多が九九を暗誦する子供のような生真面目さで何度もくり返した。いま立っているのは八千代橋だが、そのたもとの「水神さん」の佇いが、あまりにも記憶通りであることに村木はおどろいていた。

村木が子供の頃、「水神さん」の祭は華やかだった。それは、戦後しばらくしてややゆとりが生じ、祭の名物である花火がようやく景気よくなったせいだった。

 

巴川を渡る静岡鉄道の電車です。(2000年当時)

 

静岡鉄道の新清水駅です。

 

巴川を渡る東海道本線の113系です。(2000年当時)

(おわり)