座頭市海を渡る(淡路島探訪編)1998年8月 | 鉄道で行く旅

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今回は1998年8月に出かけた淡路島の旅の思い出です。

このときの撮影カメラは富士フイルム製の「FinePix700(150万画素)」でした。

FinePix700の付属レンズは「フジノン単焦点レンズ F3.2/8、単焦点f=7.6mm(35ミリ換算35mm相当)」という仕様でした。

難波駅から今は亡き7000系の和歌山市行特急に乗車しました。(1998年)

 

みさき公園駅で多奈川線の2200系に乗り換えました。深日(ふけ)港駅まで、この電車に乗車しました。

 

船の乗り継ぎ時間に余裕があったようです。終点の多奈川駅から折り返してきた2200系を撮影していました。

 

深日港駅から深日港までの商店街も、現在よりは、まだ少し賑わっていました。

 

この時代は、まだ南海がレジャーの場所として友ヶ島に力を入れていたため、加太港だけではなく深日港から友ヶ島に行く船も運行されていました。

 

まだ南海ー淡路ラインの高速艇が健在でした。南海淡路ライン消滅後の2020年6月現在の深日~洲本の航路の現状については、改めて2020年の取材結果の記事のときに書きたいと思います。(1998年8月)

 

深日港からシャトルサービス株式会社の高速艇「とらいでんと」に乗船して淡路島の洲本港へと向かいました。背景に写っている施設は関西電力の多奈川発電所です。この高速艇は1999年10月1日に廃止されています。

 

高速艇で海を渡っています。 ♪海を渡ってそれきり会えぬ・・・

ここで古典落語のマクラのような、いまの社会では分かり難くなっている本編のキーワードを説明します。

これは1998年8月の取材内容であり、その当時の人々には常識だったのですが、今では知らない人が多いため、わざわざ説明を入れます。

映画「座頭市海を渡る」は映画俳優の勝新太郎さんの超人気映画だった座頭市シリーズの一作であり、その映画では四国に渡ってお遍路をするという流れの話ですが、ここでは、たまたま渡海先の淡路島にいる座頭市の「そっくりさん」の調査であることから、その映画名を借用しています。

「座頭市」は、兇状持ちで盲目の侠客である座頭(座頭は本来は盲目の人の位(くらい)ですが、ここでは按摩師の意味だと思います)の「市(いち)」が、諸国を旅しながら驚異的な抜刀術で悪人と対峙するアクション時代劇です。「座頭市」シリーズの映画は海外でも人気がありました。

1998年8月の旅のときに現地で調べたかった『淡路島の座頭市の「そっくりさん」』というのは、淡路島の観光旅館の御主人であり、たぶん、座頭市のものまねの趣味が高じて、テレビの「そっくりショー」に出た後、それを自身が経営する旅館の宴会場で座頭市ショーとして披露するようになったのではないかと思います。(注:一時的に芸能界で活躍されたという情報もあります。後にパクパクコンテストから芸能界に入った松原秀樹、草川祐馬および川崎麻世の先輩のような存在なのかもしれません)

昭和時代に、サンテレビのCMで、その旅館のCMがよく流れていたのですが、この1998年(平成10年)8月の夏休みの時点では、旅館名を含めて、旅館の座頭市ショーのCMも消滅していました。

このときは、そのことが無性に気になって、現地である淡路島の洲本まで調査に向かったのでございました。

 

兵庫県淡路島の洲本港に着きました。

 

きれいに整備されている洲本港周辺ですが、神戸淡路鳴門自動車道開通の影響なのか、以前の賑わいがないような気がしました。(1998年8月に記入したメモからの引用です)

 

淡路島でも随一の海水浴場が洲本港にも近い大浜海岸です。たいへん残暑の厳しい日でしたが、夏休みも終わりに近く、ご覧のとおりの状態でした。関西では、昔から言われていることですが、旧盆を過ぎるとクラゲが増えるために海水浴客が激減します。

 

江戸時代の洲本城は阿波徳島藩の蜂須賀家城代の稲田氏の城下町でした。この城は三熊山の城郭(写真右上の山頂の突起部分)と平城の御殿の二つからなっています。
平城跡に淡路文化資料館が建てられています。蜂須賀家の前(秀吉の時代)は、洲本藩3万石の領主は脇坂安治でした。

 

1998年当時の淡路交通本社および洲本バスターミナルです。
淡路交通の洲本バスターミナルは、1966年(昭和41年)まで「島の電車」として親しまれていた淡路交通(鉄道線)の洲本駅があった場所です。淡路交通の鉄道線は洲本から掃守(かもり)を経由し福良までの23.4kmを結ぶ鉄道でした。

 

鉄道駅時代とはレイアウトが違うようですが、それでも微かに鉄道駅の残り香のようなものがあった洲本バスターミナルです。

 

【淡路交通鉄道線の関連情報】

2005年に撮影した南海高野線(正式には高野線ですが通称は汐見橋線)の汐見橋駅の南海沿線観光案内図です。

この案内図(古いままの観光案内図)は、惜しいことに2016年(平成28年)3月1日に撤去されてしまい、今はありません。

【案内図に描かれた昔の南海沿線】2005年に確認したものですが、描かれていた内容は昭和30年代の状態という意味の注意書きが記されていました。私の確認結果では1962年(昭和37年)7月から1964年(昭和39年)3月の間のものと推定しました。

昭和30年代のままだった主なものは下記のとおりです。

・「島の電車(1966年10月に廃止になった淡路交通鉄道線)の路線図が描かれていました。これが一番感動的でした。
・南海電鉄の和歌山軌道線や加太線の北島支線が健在でした。
・国鉄(JR)和歌山駅が旧駅名の東和歌山駅、国鉄(JR)紀和駅が旧駅名の和歌山駅のままでした。(両駅の駅名改称は1968年3月のことです)

 

当時のバスターミナル部分です。

 

現在はバスターミナル機能は少し洲本港寄りの洲本バスセンターに移っており、ここには淡路交通の本社機能や現業事務所などの機能が残っているだけのような感じです。なお、淡路交通の法人としての本店所在地は「兵庫県洲本市宇山1丁目4番39号」になっていました。

 

旧鐘紡綿糸洲本工場のれんが建築を利用した、当時の「ミュージアムパーク・アルファビア」という施設です。

2000年に業績不振により閉鎖となり、一部のイベント利用を除くと放置状態でしたが、現在は、「淡路ごちそう館 御食国」として利用されています。

 

 

淡路島島民から「弁天さん」として親しまれているのが写真の厳島神社です。毎年11月21日~23日に淡路島一といわれる盛大な弁天祭りが行われます。

 

残暑が厳しく、日中に旅館街を歩いているのは遠方から来た海水浴客ぐらいでした。しかし、あきらめかけていたころに出会った地元の初老のご婦人から「淡路島の座頭市のその後」を聞くことができました。
【洲本市の旅館街での座頭市の聞き取り調査結果】
私「ちょっと昔のことをお聞きしたいのです。このあたりにあった淡州(だんしゅう)という旅館のご主人のことをご存じですか?」
婦人 「ああ、それならここのホテルと、あすこ(「あそこ」の淡路弁です)のホテルを経営してるご主人や」(と言いながら淡州の屋号ではないビジネスホテルを2軒教えてくれました)
 私「その、ご主人というのは、旅館で座頭市のショーをやっていたご主人ですよね?」
婦人 「あんた、えらい古いことを知ったはるな。(大笑した後 → ) そうや、だいぶ昔のことやけど、座頭市のショーを旅館でやったはったわ」
 私「その淡州のご主人はお元気ですか? それに今でも座頭市のモノマネをすることがあるのですか?」
 婦人「まあ、元気といえばそうともいえるけど・・・ (少し首を左右に振りながら→)足腰が弱ってしもてな。あんなシャープな動きは、もうでけへん(「できません」の淡路弁です)」
たいへん残念なことに、あの真に迫った座頭市の殺陣は、1998年の段階でも、すでに拝見することができなくなっていたのです。
注:関西や四国圏以外の方には違和感があると思いますけれども、南海道(近畿圏では和歌山県と兵庫県淡路島など)育ちの方は平等意識が強く、普段の会話では、この場面のような初対面の人が相手でも丁寧語は使いません。(また仮に目上と思われる人に対しても尊敬語や謙譲語などの敬語を使わない傾向があります。(個人差がありますので絶対にそうだということではありません。また教養のようなものと「敬語を使う・使わない」という傾向が比例しないところも特徴的です)
 

洲本港の右奥にある2棟の建物が、「ホテル淡州」の経営者によるビジネスホテルの「淡路プリンスホテル」と「淡路第ニプリンスホテル」です。

なお、2020年6月現在の企業情報では、現在の同社が経営する施設は、淡路島洲本市の、やや新しい開発地であるサントピアマリーナの近くにあるリゾート型温泉旅館「淡路インターナショナルホテルザ・サンプラザ」と、本格派ビジネスホテル「淡路プリンスホテル」・「淡路第二プリンスホテル」を運営する企業ということになっております。

念のために「国税庁の法人番号公表サイト」で同社の法人情報を確認した結果です。商号は昔のとおり「観光ホテル淡州」のままでした。
法人番号 6140001085013
商号又は名称 株式会社観光ホテル淡州
本店又は主たる事務所の所在地 兵庫県洲本市海岸通1丁目7番2号 

(法人番号・法人情報は個人番号・個人名などとは異なり個人情報には該当しません)

 

1998年に撮影した淡路プリンスホテルです。西武ホールディングスとは何の関係もないホテルです。

 

国土地理院の1980年撮影の空中写真で調べたホテル淡州の場所です。

写真のとおり旅館は海岸通にありました。少し離れて南東にある砂浜が大浜海岸です。

 

う~ん、この画像から『座頭市の歌が聞える』かな?

「俺たちゃナ ご法度(はっと)の裏街道を歩く 渡世(とせい)なんだぞ。 いわば天下の嫌われもんだ」

♪およしなさいよ 無駄なこと いって聞かせて そのあとに 音と匂いの 流れ斬り 肩もさびしい 肩もさびしい
 「アア いやな渡世だなァ」

↓昭和時代のホテル淡州のCMのナレーションです。 (サンテレビのCMは1970年代から1980年代まで放映されていたそうです)

洲本市海岸通の本格的シーサイドホテル淡州(だんしゅう) 。

座頭市のそっくりさんの迫真の演技も楽しめます。

七福神巡りのお泊りはホテル淡州へ、ぜひどうぞ。

サンテレビCM 洲本温泉四州園 ホテル淡州(furuken4649)

いまさら、どうでもよいことですが、サンテレビのCMのナレーションでは正確に海岸通と言っておきながら、映像で出てくる文字では大浜海岸になっていました。

 

洲本港バス停から、路線数・便数ともに多い神戸淡路鳴門自動車道のハイウェイバスに乗って高速舞子まで帰りました。写真の洲本・学園都市間の路線は淡路交通と山陽電気鉄道(当時は淡路交通と山電直営のバス)との共同運行でした。現在は淡路交通と神姫(しんき)バスの共同運行に変わっています。

 

150万画素の単焦点デジカメですので、画質が今ひとつな感じがする瀬戸内海の風景です。

 

ハイウェイバスで3,911m(中央支間1,410m)の長さを誇る世界一の吊り橋「明石海峡大橋」を渡っているところです。道路面でも50mを超える高さですから、JR舞子駅付近もご覧のとおりの景色に見えます。洲本港から高速舞子のバス停まで約1時間でした。

 

舞子公園駅から山陽電車に乗って阪神梅田駅(現在の阪神大阪梅田駅)まで帰ります。

2001年9月に橋上駅舎化されましたが、これはそれ以前の昔の舞子公園駅の上り線側駅舎です。これを撮っていたことを忘れていましたので懐かしい感じがしました。

 

舞子公園駅で見た山陽3000系の普通車です。当時の山陽電車の夏休み期間恒例の「海」ヘッドマークが懐かしいです。

 

当時は、まだあった山陽線内中心のデータイム特急です。阪神三宮(現在の阪神神戸三宮)止まりの特急でした。

 

参考画像:3000系復刻塗装車の「海」復刻ヘッドマークつきの編成です。(2019年)

 

当時のメモによりますと元町駅で画像の阪神9000系(近鉄乗り入れ車両に改造される前の姿)の特急に乗り換えて阪神梅田駅(阪神大阪梅田駅)まで帰ったようです。

(おわり)