京阪電車淀駅周辺を歩く(後編) | 鉄道で行く旅

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京阪電車淀駅周辺を歩くの後編です。今回は淀古城と戊辰戦争の戦跡碑などを歩きます。

6差路交差点の納所(のうそ)交差点から見た淀駅と京阪電車です。

納所は品物を納める場所という意味です。物資の集積地と積み替え場所を兼ねていたのでしょう。

 

6差路の納所交差点を行く京都京阪バスのいすゞエルガです。

 

なお、日本一の多差路は東京都江戸川区にある菅原橋交差点(最寄り駅は新小岩駅)の11差路です。
菅原橋交差点は千葉街道(国道14号)と鹿骨(ししぼね)街道が交差する交通の要衝に小道が幾つもつながった形の交差点です。

「鹿骨(ししぼね)」の地名の由来 ・・・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から(2020年6月2日20時00分に引用)
奈良時代(8世紀)、藤原氏によって奈良の春日大社の創建に際し、常陸の鹿島神宮から分霊されたが、その際に多くの神鹿を引き連れておよそ1年かけて奈良まで行ったと言い伝えられており、その途中、鹿が死んだためこの地に葬った。これが「鹿骨」の地名の由来とされる。

 

納所交差点の近くにある淀小橋旧趾(し)です。

これは京都淀ライオンズクラブが1990年に再建したものです。

「淀小橋は宇治川に架けられた橋で,紀伊郡納所村と城下町淀を結んだ。京都・伏見と大坂を結ぶ街道のかなめにあった重要な橋である。淀小橋は淀川改良工事(明治30~同44年施工)の一環として明治36年に宇治川が付け替えられると,その流路からはずれ撤去された。」

再掲載:淀城跡にある石碑の中央のものが1928年に作られた「淀小橋旧趾(し)」の旧碑だと思います。

 

1909年(明治42年)の淀の地図です。中央部分に淀小橋の文字があります。この後の1922年(大正11年)の地図では旧宇治川の大部分が埋め立てられ淀小橋も姿を消していました。

 

これも京都淀ライオンズクラブが建て替えたものです。この場所が「京阪電車淀駅周辺を歩く(前編)」で説明した「唐人雁木」があった船着き場の跡地です。

 

「五番ノ橋」は1912年(明治45年)に鳥羽街道(千本通)の納所川(淀古城の堀跡とされている川)に架けられた橋です。

 

鳥羽街道の旧納所村には一番から九番までの連番の地名があったということです。それは、朝鮮通信使のために地区別に番役を割り当てた名残りだと言われています。

 

「五番ノ橋」と納所川です。納所川は、この先で桂川につながっています。

 

京都側から見た「五番ノ橋」です。

 

妙教寺です。ここが豊臣秀吉の側室「淀殿」の産所だった淀古城跡の一部です。妙教寺は1626年に創建された法華宗の寺院です。

 

妙教寺の境内の淀古城跡地です。

 

淀古城跡と戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いの跡地であることを示す石碑です。

石碑に刻まれているように本堂に戊辰戦争のときの砲弾の貫通痕があります。

 

妙教寺の境内にある「戊辰之役東軍戦死者之碑」です。これと同じ題字の石碑が伏見区淀新町の長円寺(浄土宗)と伏見区榎町の悟真寺(浄土宗)にもあるそうです。同じものが3つあるということです。
この石碑は、1907年(明治40年)に東軍戦死者四十年祭典が「京都十七日会(徳川家恩顧者の会・・・十七日は徳川家康公の月命日の日です)」により挙行されたときに建立された石碑です。

 

石碑の碑文の揮毫者は榎本武揚(1836年~1908年)です。榎本武揚が亡くなる前年に書いた文字ということになります。榎本武揚の書から同じ文字の石碑を3本作ったと言われています。

 

【榎本武揚の関連画像】

東京の墨田区向島にある榎本武揚旧居跡です。2019年2月 

 

北海道・江差町の開陽丸青少年センターと「開陽丸記念館」です。(1996年5月)

 

函館の五稜郭です。(2019年1月) 

 

妙教寺から桂川の左岸を少し上流まで歩きました。

桂川の堤防です。

 

ピンク色の花はヒルザキツキミソウのようです。

 

「愛宕茶屋」というのは愛宕神社の祠があったところです。昔は堤防に茶屋があったことから愛宕茶屋と呼ぶそうです。

ここが鳥羽伏見の戦いの激戦地の一つで、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑が建っています。1868年(慶応4年)1月5日に、この場所に東軍戦死者の35柱を埋骨した場所です。

 

この後、納所に引き返しました。

納所会館の敷地にある「戊辰役戦場址」の石碑です。

 

13号京都守口線から見た納所川の下流です。妙教寺の本堂裏が見えていました。
この辺りが淀古城の薬師堂趾とされているところです。「南城堀」という地名の少し北側です。

 

これは「北城堀」という地名のところです。

納所星柳にある「鳥羽伏見之戦跡地」の石碑を見て、ここから右折して「戊辰戦争淀千両松の戦いの地」に向かいました。

 

UR都市機構の納所団地を縦断して京阪本線の淀駅の京都側に出たところです。

ここは16年ぶりに来ました。その頃は淀駅付近は高架になっていませんでした。

 

2004年に京阪電車の千両松踏切で撮影した9000系の新選組電車です。

「千両松」の地名は豊臣秀吉が宇治川の堤に植えた松の名前からきています。

 

2004年に撮影した「戊辰戦争淀千両松の戦いの碑」と京阪電車です。

 

2004年に撮影した画像を見ると、この周囲は駐車場でした。

 

その16年後です。「戊辰戦争淀千両松の戦いの地」の周囲に住宅が建っており、16年間の「♪時の流れ」を感じました。(2020年)

 

これは愛宕茶屋と同じ「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の石碑です。
ここは会津軍&新選組と薩長軍との激戦地だったところで、井上源三郎ほかの新選組14名が戦死した場所です。
「埋骨地碑」もまた、1907年(明治40年)の東軍戦死者四十年祭典のときに「京都十七日会」が建立したもので、「埋骨地碑」は伏見区内に12カ所あるそうです。
この「戊辰戦争淀千両松の戦いの地」の石碑の場所は2013年の住宅地開発のときに更地になるところでしたが、この土地の元所有者の厚意により慰霊碑付近の土地を住宅地用に売却することなく、妙教寺に所有権を移したということです。

 

1970年に競馬場関係者によって建てられた「戊辰役東軍西軍激戦之地碑」です。

淀駅周辺での取材はこれで終わりです。

 

伏見区榎町の悟真寺の最寄り駅の近鉄京都線伏見駅付近を走る近鉄特急です。(2018年4月撮影)

 

伏見区の「龍谷大前深草駅(旧・深草駅)」付近を走る京阪7200系です。(2012年)

 

思い出の淀行急行「Gallop号」です。

 

淀駅から大阪まで京阪電車で帰りました。

(おわり)