北近畿&鳥取県の思い出紀行 | 鉄道で行く旅

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鉄道旅行を中心としたブログ記事を投稿しています。

今回は、拙ブログでの記事数が異常に少ない『鳥取県』と「兵庫但馬地方(北近畿の一部)」の鉄道の旅の思い出です。

鳥取県の記事はたまたま少ないだけで、普通の旅行では何度も鳥取県まで出かけています。(出かけていた時期は古いですが)

国鉄時代と昭和時代の末期の1986年(昭和61年)に福知山線全線と福知山~城崎(現在の城崎温泉)が電化され、それまでの特急・急行が特急「北近畿」という、普通の人の感覚では馴染みにくい広域な地名で運行を開始しました。それが特急「こうのとり」の前身でした。画像は特急「北近畿」の初期のヘッドマークです。撮影は1988年(昭和63年)1月に当時の城崎駅での撮影です。

特急「北近畿」の後期のヘッドマークです。

 

1.城崎温泉・あまるべ温泉の旅

兵庫県の但馬地方の城崎温泉です。(1988年1月)

昭和末期から平成初期の頃は、毎年のように家族や職場有志で山陰地方の温泉に出かけていました。城崎温泉、あまるべ温泉、湯村温泉、三朝温泉および関金(せきがね)温泉などです。また、大山(だいせん)や鳥取でも宿泊していますし、鳥取砂丘にも3回行っています。

 

旧・余部橋梁を渡る特急あさしおです。(1991年8月撮影)

 

WT3000形への改造前の若桜鉄道WT2500形2004の「さくら4号」です。(1991年8月 若桜駅)

 

これは当時の職場の仲間と一緒に「あまるべ温泉」に出かけたときに宿泊地の最寄り駅の餘部駅で撮った旧・余部橋梁です。(1987年)

「続・事故の鉄道史(佐々木富泰・網谷ちょういち)」からの引用です。
東洋一の高さを誇っていた「(旧)余部橋梁(1912年~2010年)」は、トレッスル構造のかなり思い切った構造物だったのだが、線路を高い位置にあげてトンネルを短くする目的で造られたのである。これは陸橋で、水中に橋脚を建てた橋梁ではないので、見た目ほどには費用はかかっていない。低い位置を通る案と比較して、建設費はかなり安くなったはずである。

 なにしろ(仮想敵国の)艦砲射撃一発で破壊できるし、破壊されると改修も迂回線を造ることもできない。日露戦争(1904年~1905年)の前だと、もちろんこのような橋梁は造られていないだろうが、日露戦争後には、日本海側については鉄道を海岸線沿いに通すのは平気になった。

 

旧・余部橋梁を通過する特急はまかぜです。

 

1986年12月28日に、車両の回送中に強風のため余部橋梁から転落したオロ14系お座敷客車「みやび」です。(オハ14系の改造車)

1986年春のデビュー前に京都駅で展示されたときの「みやび」です。

 

これは1988年1月に「あまるべ温泉」を再訪したときに餘部駅から余部橋梁を眺めた画像です。

 

2.「湯かむり唄」の岩井温泉の旅

旧・余部橋梁を通過するエーデル北近畿です。(1991年8月撮影)

画像の右下が「お座敷グリーン客車みやび」の転落事故の慰霊碑です。

 

これは岩井温泉から大阪への帰りに利用したエーデル北近畿またはエーデル鳥取の先頭座席(展望席)から眺めた余部橋梁です。(1991年1月)

鈍足特急だったエーデル北近畿・エーデル鳥取などは1994年12月の智頭急行の開業により、その役目を終えました。

 

山陰本線岩美駅です。名湯といわれる岩井温泉の玄関駅でもあります。(1991年1月)

 

岩美駅に飾ってあった岩井温泉の広告看板です。岩井温泉の入浴時の奇習「ゆかむり唄」の絵が飾ってありました。(1991年)

岩井温泉に江戸時代から伝わる入浴法の「湯かむり」という風習があります。頭に手拭いをのせ、柄杓で湯を汲んで頭から『かむる(かぶる)』ことから「湯かむり温泉」と言われています。
この「湯かむり」は温泉で長湯をするための工夫であり、その際に入浴客が楽しめるようにと歌を唄ったのがきっかけではないかとされています。 

なお、看板の「JR周遊地」というのは1998年4月1日に廃止された「一般周遊券(普通周遊乗車券)」の周遊指定地だった場所です。

 

路線バスで移動した後の岩井温泉のメインストリートです。

岩美町は鳥取県ですので、路線バスは全但バスではなく日本交通バスだったと思います。(1991年1月)

 

1991年当時の岩井温泉の「湯かむり温泉」共同浴場です。(1991年1月)

今は、「湯かむり温泉」共同浴場も蔵造り風の立派な建物に変わっているようです。

現地の説明によりますと、「鳥取県岩井温泉は、1300年の歴史を誇る山陰最古の温泉」ということです。

 

岩井温泉の近くを流れる蒲生川から見た上流の風景です。

右側の堤防付近を1926年(大正15年)から1944年(昭和19年)まで岩井町営軌道という軌道法による鉄道が走っていました。車両はガソリン機関車+客車またはガソリンカーだったようです。

 

3.ラジウムラドンの関金温泉の旅

1983年に職場の仲間と一緒に大阪淡路交通(2007年にバス事業廃止)のバスツアーで三朝温泉に泊まったときの画像です。

当時は清酒「打吹正宗(うつぶきまさむね)」を醸造していた松井酒造(*)を見学したときに、偶然にもバスの窓から倉吉線の列車を撮影しました。

私のような平凡なレールファンは、それほどの車両知識はありませんが、鉄道模型ファンがよく知っていると思われる旧客車時代の特急列車にも使われていたオハニ36が連結されていました。この倉吉線は1985年(昭和60年)4月1日に廃止になっています。

*(松井酒造は、現在は清酒の醸造を休止し、ウィスキー・梅酒・スピリッツなどを製造しているそうです)

 

1988年に鳥取県倉吉市の「関金(せきがね)温泉」の老舗旅館「温清楼」に泊まったときに撮影した画像です。

この頃は、まだ寂れる前の「温清楼」でした。本当に関金の名旅館という感じでした。(1988年)

関金温泉は、三朝温泉に次ぐ日本第二位のラジウムラドン温泉です。

この旅館「温清楼」は2009年頃に廃業されたそうです。

廃業後の「温清楼」は、「しゃあま家茶屋」という土休祝日営業の飲食店に改築され、画像の温泉も足湯に転用されたように聞いています。(注:「しゃあま家茶屋」は、諸般の事情により2017年11月末に閉店しました)

 

この1988年に関金温泉の旅館の近くにある倉吉線関金駅跡を見学しました。

2020年現在は痕跡がほとんどない状態のようです。画像の1988年当時は関金駅の駅舎が取り壊されずに残っていました。

 

関金駅ホーム跡から見た山守駅方面です。倉吉線の線路規格は低く、廃線に至るまでレール重量は30kgのレールが使われていました。

 

関金駅跡の山守駅側です。機関車が牽引する客車列車は関金駅での折り返し運転であり、終点の山守駅の発着列車は全てディーゼルカーの列車でした。

 

関金駅のプラットホーム跡地です。

 

関金駅跡から見た倉吉駅方面です。1972年に上井(あげい)駅が倉吉駅に改称され、倉吉線の倉吉駅が打吹(うつぶき)駅に改称されました。

 

4.国鉄の旧型客車の旅

最後は現役旧型客車末期の山陰本線425レの乗車記です。写真アルバムのメモ欄には1986(昭和61年)年3月8日と書いてありました。

特急まつかぜの窓から見た旧・餘部橋梁通過時の景色です。(1986年)

 

大阪1983年

これは1983年に大阪駅で撮影したDD51+旧型客車の福知山線の列車です。この後、50系客車時代を経て12系客車に置き換わりました。

その新しい客車での運行も福知山線が電化されるまでのことでした。

 

そういうことから、わざわざ山陰本線まで現役の旧型客車に乗りにいったわけです。

倉吉駅から松江駅まで、この列車に乗車しました。編成の最後部客車はオハ46の緩急車タイプであるオハフ45でした。(1986年)

 

私の少年時代は、これが当たり前だった旧型客車の設備です。

これは故障ではなく、後部扉や乗降扉を開放したままで、営業列車として平然と運行されていました。(1986年)

 

元々は急行列車用の近代化済み客車であり、修学旅行などで乗車経験があるため、それほど懐かしいというものでもありませんでした。それでも、かつての普通列車用のオハ60系のような背もたれが板張りではないため、これでも快適な部類の車両でした。(1986年)

 

福知山線

なにしろ、1970年頃の福知山線の普通列車は、こういう感じでしたから。

 

山陰本線425レに戻ります。

トリミングなしに傾いたままの画像を貼っておきます。車内吊り広告が大山(だいせん)とか打吹公園(倉吉のサクラとツツジの名所である「うつぶきこうえん」)の広告になっていました。(1986年)

 

松江駅で下車したときに撮影した非近代化客車の「ぶどう色」のオハフ33です。

 

1972年に初めて山陰への旅をしたときに米子駅で撮影したD51牽引の貨物列車です。

 

5.ドラマ人間模様「新夢千代日記」の旅

ここからは2000年4月の「新夢千代日記」の旅です。

 

旧・餘部橋梁です。

 

2000年当時の「新福知山線色」の113系です。(豊岡)

 

国鉄時代の福知山線113系800番台です。

 

播但線用のキハ41の2000番台です。それにしても無理矢理な改造だと思うのは私だけでしょうか。

 

山陰本線の諸寄駅です。

 

諸寄駅前で見た咲き始めのサクラです。

 

新夢千代日記でボクサーと歌人「前田純孝」の二役を演じたのが松田優作(1949年~1989年)さんでした。

画像は諸寄海岸にある前田純孝の歌碑です。

「いくとせの前の落葉の上にまた 落葉かさなり 落葉かさなる (純孝)」

 

諸寄駅のプラットホームです。(2000年)

 

湯村温泉にあるNHKドラマ「夢千代日記」シリーズの脚本を書いた早坂暁さん(1929年~2017年)の歌碑です。

 

湯村温泉にある夢千代像です。

 

播但線

播但線

「夢千代」さんが、神戸市内の病院に通院するときに利用していた播但線経由の急行但馬です。(生野・1971年撮影)

 

『夢千代』を演じた吉永小百合さんの手形とサインです。(2000年)

「夢一途」

(完)