2016年・宮城の旅と土井晩翠 | 鉄道で行く旅

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2020年4月に仙台、大型連休前後に函館に出かける予定でしたがキャンセルしました。

その残念編の第1回として「宮城県の旅」の思い出の記です。

今回は、2016年正月の宮城県の旅の再構成編をお届けします。

2016年元旦の仙台空港駅です。大阪からANA便で仙台に着いたところです。

 

仙台空港鉄道のSAT721系に初めて乗車しました。同区間のJRの車両には何度も乗っており、SAT721系については初乗車だったという意味です。

 

仙台駅前で見た仙台市交通局の「るーぷる仙台」です。

この車両のシャーシはいすゞ製です。車体は岩戸工業(岐阜県各務原市鵜沼)製です。岩戸工業は川重の協力会社で、しかも岐阜県の各務原にありますので、航空機部品なども製造しています。

 

このときの仙台では開業後間もない仙台市地下鉄東西線に初めて乗車しました。

 

国際センター駅から史跡「仙台城跡」まで歩きました。

 

史跡「仙台城跡」から眺めた仙台市のビル群と広瀬川を渡る仙台市地下鉄東西線の車両です。

 

土井晩翠(1872年~1952年)の胸像です。われわれ一般人には詩人として知られていますが、本職は旧制第二高等学校教授(東北大学の前身の教授)で英文学者でした。なお、土井晩翠(どい ばんすい)の本名は「土井林吉」で、名前の読み方は1934年までは「つちい りんきち (つちい ばんすい)」が正しく、1934年の改名後が「どい りんきち (どい ばんすい)」です。 

 

仙台城跡にある「荒城の月」の詩です。

この詩は、明治32年(1899年)に文部省(現在の文部科学省)が旧制中学校の唱歌集を、主として日本人の作曲で編纂したときの唱歌の歌詞の一つです。唱歌の選定や編集などは文部省直轄の東京音楽学校(東京藝術大学の前身)が行いました。

【旧制中学校唱歌集の募集スケジュール】
・明治32年(1899年)1月 作詞の委嘱 ・・・ 教育者や有名詩人に委嘱(外山正一、大和田建樹、与謝野鉄幹、佐佐木信綱、土井晩翠など)
・明治32年(1899年)3月 歌詞を公表し作曲を募集 ・・・ ただし西洋音楽を作曲することができる日本人が少なく、実態は東京音楽学校関係者を中心に応募(採用曲の著作権を文部省が買い上げ)

 *気になる方がいると思いますが、明治32年(1899年)の段階では西洋音楽の著名作曲家である山田耕筰(1886-1965)は満年齢で13歳であり、まだ旧制中学校の生徒でした。

・明治32年(1899年)4月末 締切

 

土居晩翠本人が執筆した『「荒城の月」のころ』によりますと、「東京音楽学校(東京藝術大学の前身)から荒城の月の歌詞を命ぜられた時に、先づ第一に思ひ出したのは会津若松の鶴ケ城であった」とはっきり記しています。(画像は会津若松の鶴ヶ城・1985年撮影)

 

仙台城跡

仙台城跡

『私の故郷の仙台の青葉城。この名城も作詞の材料を供したことはいふまでもない。垣に残るは唯(ただ)かづら、松に歌ふは唯(ただ)嵐はその実況である』土井晩翠『「荒城の月」のころ』からの引用

 

↓1991年に宿泊した金田一温泉の座敷わらしの宿「緑風荘」です。金田一春彦氏の父だった金田一京助氏のゆかりの地です。

土井晩翠の詩集の不思議(「荒城の月」を詩集に収録せず?)

現在、著作権切れにより閲覧可能な青空文庫の「天地有情(土井晩翠)」には「荒城の月」が収録されていますが、これは晩翠の死後に「天地有情」の書籍を復刊(青空文庫のことではありません)する際に、商業上の事情からなのか(?)、元々は入っていなかった「荒城の月」を詩集に強引に収録したものです。詩集「天地有情(土井晩翠)」の最初の出版時には、まだ「荒城の月」の詩が作られていませんでした。また、土井晩翠は「天地有情(土井晩翠)」以降の詩集にも「荒城の月」を収録していません。

「金田一春彦・安西愛子編」の「日本の唱歌(明治編)」に「コージョー(荒城)という聞きなれない言葉と音は良くないが、(作詞の)題材と構成はすばらしい」と褒めたうえで、「詩集に載せていないのは、(土井)晩翠としては快心の作ではなかったのではないか?」と書いてあります。

これについては、ごく普通の作詞・作曲なら著作権は作者のものですが、明治時代の旧・文部省の唱歌の著作権は作詞者や作曲者ではなく旧・文部省が持っていました。詩集に収録しなかった(できなかった)のは、旧・文部省が著作権を持っていたからではないでしょうか。

 

「荒城の月」の作曲者である瀧廉太郎です。(豊後竹田の岡城址・2018年)

 

君(瀧廉太郎のこと)は21歳の頃、大分に帰省の際に竹田町郊外の岡城趾でこの曲を完成した』土井晩翠『「荒城の月」のころ』からの引用

 

この「歌碑」は1934年(昭和9年))に作詞者の土井晩翠が瀧廉太郎を追悼するため岡城を訪れ、直筆でしたためたものです。二番の歌詞が、なぜなのか『秋陣営の夜半の霜 (唱歌では「秋陣営の霜の色」)』になっています。これは、土井晩翠が書き損じたのかもしれませんが、豊後竹田の地元の方々は「岡城にしかない歌碑」ということにして、この歌碑を郷土の誇りにしているそうです。

 

土井晩翠は瀧廉太郎の追悼式典などのために何度も豊後竹田を訪れています。『「荒城の月」のころ』は1947年(昭和22年)の終戦後の時代に豊後竹田で行われた瀧廉太郎追悼式の様子を土井晩翠が書いたものです。

↓『「荒城の月」のころ』の末尾です。

 天上影は変わらねど
 栄枯は移る世の姿

 しかしこれを他の一面から考へると春夏秋冬の推し移る通り、全く弱り切つてる冬枯の日本(←終戦直後のこと)も、いつかは春が来るであらう。この希望を抱き、在来のミリタリズムを振り棄てて祖国愛と人類愛とを兼ねる新天新智の理想を抱き、邁進すべきである。前途は遠いだらうが日本の復興は必ず来ることは私の第六感である。 (昭和22年) 土井晩翠

注:本投稿では『「荒城の月」のころ』を引用した際に、分かり難い部分に限り現代語に訳しています。

(豊後竹田の岡城址の画像は2018年3月に撮影したものです)

また、瀧廉太郎が幼少時を過ごした富山城(の城址)も「荒城の月」を作曲した際のモデルの城ではないかと言われています。(1999年撮影)

 

瀧連太郎とライプツィヒ

瀧君が独逸留学の着後、ライプチヒ市のファルヂナンド・ローデ街7番地(Ferdinand-Rhode-Straße 7)エッスィケ夫人の許(もと)に下宿した』土井晩翠『「荒城の月」のころ』からの引用

 

瀧連太郎とライプツィヒ

瀧廉太郎のドイツでの官費留学期間は1901年4月(ライプツィヒ到着は6月)~1902年10月です。(2015年撮影)

2003年6月27日に瀧廉太郎の没後100周年を記念し、ライプツィヒの下宿跡の前に瀧廉太郎の記念碑が建てられました。

瀧廉太郎の記念碑の場所はドイツのライプツィヒのフェルディナント=ローデ通り(Ferdinand-Rhode-Straße)とモーツァルト通り(

 

土井晩翠と瀧廉太郎がロンドンテムズ川の河口の港で対面 (1902年9月)

作曲の後、3カ年の留学を命ぜられ、ライプチヒで研究したが不幸にも中途で発病してやむなく帰朝した。独逸のハムブルグ港出発の日本郵船会社での帰途、その船がロンドン先きのテームス河口テルベリイドックに一日停泊の時、私は当時英国留学中の姉崎正治博士に陪して彼を見舞った。これが彼と私との最初最終の対面である。帰朝の翌年25歳で瀧君は一生を封じ去つた。25歳の短い生涯において「荒城の月」及び他の若干の傑作を残した・・(以下省略)土井晩翠『「荒城の月」のころ』からの引用

 

土井晩翠(1872年~1952年)と夏目漱石(1867年~1916年)の欧州留学

土井晩翠は私費により、1900年5月から1903年1月までヨーロッパに留学しています。

前述のとおり、日本への帰国途中にロンドンに立ち寄った瀧廉太郎をテムズ川の河口に近い港に停泊中の客船まで見舞いに行っています。

これとは別に、土井晩翠と同じ英文学者だった、官費英国留学中の夏目漱石にも土井晩翠はロンドンで会っています。

明治34年(1901)8月15日、夏目漱石はパリからロンドンにやってきた土井晩翠と志賀潔をヴィクトリア駅で出迎えました。

土井晩翠は、このクラパム・コモンの漱石の下宿に、しばらく滞在したそうです。(2009年9月撮影)

この後、土井晩翠は、ロンドン大学で英文学研究を1年間行いました。滝廉太郎を晩翠が見舞ったのは、この期間中の1902年9月のことでした。

ロンドンの南部を走るトラムリンクです。(2009年9月)

 

土井晩翠はロンドン大学の後、1903年1月から4月までパリのソルボンヌ大学でフランス文学を研究します。

パリのトラム2号線(T2)です。(2015年5月)

 

ライプツィヒ

さらに、土井晩翠は1903年10月から1904年7月までドイツのライプツィヒ大学で独英文学を研究しました。

晩翠が日本に帰国したのは1904年(明治37年)11月です。

ドイツのライプツィヒのトラムです。(2015年9月撮影)

 

土井晩翠の詩は明治時代は日本の詩の主流だった漢文を読み下したような文語調の詩でした。漢詩のような格調の高さを持ちつつ、和歌の五七調の韻律は明治時代の日本人には親しみやすい詩だったのだと思います。明治の詩人としては土井晩翠と人気を二分していた詩人時代の島崎藤村も五七調の韻律の詩を作っていました。

【島崎藤村の詩の例】

 小諸なる 古城のほとり 雲白く 遊子(ゆうし)悲しむ ・・

 遠き別れに 耐えかねて この高殿に のぼるかな ・・

土井晩翠や島崎藤村の「五七調」の詩は、旧詩体(和歌・俳諧・川柳・漢詩)と比較すると明治時代の新しい文体の詩だったのです。

廣瀬川 (土井晩翠の詩)

都の塵を逃れ來て
今わが帰る故郷の
夕凉しき廣瀬川
野薔薇の薫り消え失せて
昨日の春は跡も無き
岸に無言の身はひとり。

 

仙台の広瀬川(廣瀬川)と同名の川ですけれども、群馬県前橋市の広瀬川(廣瀬川)です。

前橋市1992年

ところが、大正時代に入ると、当初は石川啄木の短歌や北原白秋の詩(萩原朔太郎よりも文体がやや伝統的な詩)の影響を受けていた萩原朔太郎が「口語自由詩」を確立します。それ以降は、七五調の文語定型詩の世界では新たな有名詩人が出ない状態になりました。

 

仙台駅を後にして仙石線で松島海岸駅に向かっているところです。

 

松島海岸駅から瑞巌寺の五大堂まで歩きました。

松尾芭蕉だけではなく、あのアインシュタイン博士も、いたく感動したとされている松島です。

 

人生2度目の五大堂でした。五大堂の「すかし橋」を渡っているところです。

すかし(透かし)橋の意味は、身も心も乱れがないように、足もとをよく見つめて、気を引き締めながら橋を渡って五大堂に参詣してもらうための配慮とされています。

 

伝説では坂上田村麻呂が、ここに毘沙門堂を建てたのが始まりだそうです。

現在の建物は伊達政宗公が1604年に建立したもので、五大明王像を安置していることから五大堂と呼ばれています。五大堂は国指定の重要文化財です。

五大堂を再訪した感想は、さわやかな場所という印象でした。

 

松島海岸駅まで戻りました。

 

石巻行の電車で松島海岸駅から高城町駅に向かいます。

 

その途中に直流電化の仙石線と交流電化の東北本線を結んでいる接続線があります。これが運行路線名で言うところの「仙台東北ライン」の一部になっています。この接続線部分は架線のない非電化区間です。

 

一旦下車した高城町駅の駅舎です。「仙台東北ライン」ができていなければ一生行くことがなかった駅だと思います。

 

JR(旧国鉄)の駅というよりも私鉄(宮城電気鉄道)駅の感じが今も残っている高城町駅でした。

 

仙台行「仙台東北ライン」のハイブリッド気動車HB-E210系がやってきました。

ディーゼルエンジン発電+バッテリーにより交流モーター(かご形三相誘導電動機)を回して走るハイブリッド車両です。

 

列車後方の窓から撮影した仙石線と東北本線の接続線区間です。

仙石線と別れて東北本線に向かっているところです。左側に下り列車用の安全側線があります。

この撮影当時は東北本線と仙石線の列車運行システムが別々のシステムでしたので、この短絡線上で一旦停止して『無線切替』を行っていました。

2018年8月に東北本線と仙石線の列車運行システムが一つに統合されましたので、現在は、一旦停止して『無線切替』を行う必要がなくなっています。この列車運行システムの統合により運転保全度も向上しているのです。

 

さらに東北本線塩釜駅側に進んだ列車後方の景色です。まだ、この当時は連絡線の高城町駅下り第1場内信号機に『無線切替』の案内標識が取りつけられていました。

この画像とは逆方向の東北本線塩釜駅側に場内信号機があります。それはおそらく松島駅の場内を通過することから、松島駅の場内信号機だと思います。

 

【参考画像】松島駅と高城町駅の仙台東北ライン接続線部分の場内信号機・出発信号機の内方(防護区間)の概略図です。

仙台東北ラインの接続線は独立した信号場ではなく、松島駅および高城町駅の場内の防護区間が仙台側に延伸された形になっているようです。注:あくまでも門外の素人が描いたものですのでご笑覧くださいますようお願い申し上げます。

 

架線がない区間を東北本線に向かって進んで行きます。(列車後方の景色です)

 

東北本線に入った後の列車後方の風景です。右奥が接続線への分岐で、東北本線上の渡り線が下りの仙台東北ラインの列車用の渡り線です。

というように、「仙台東北ライン」を満喫しました。

 

これは大阪に帰る前に仙台空港で撮影したAIR DOのボーイング737-700です。

(おわり)