台湾鉄路環遊之旅(2003年)花蓮~高雄 | 鉄道で行く旅

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2003年4月の台湾の旅の続きです。

花蓮駅から自強号に乗り、台湾南部を経由して高雄駅に向かうところです。

 

当時の自強号のリクライニングシートです。車両は日本車輛製ですが、シートは台湾製ということでした。

 

日本では、かなり早い地域で田植が始まる時期でしたが、台湾では、もう稲が生育していました。

 

花蓮~台東の間の台東線は1982年に超狭軌(軌間762mm)から狭軌(1,067mm)に未電化のまま改軌されました。

この旅行の後の2003年8月にタブレットを使用する非自動閉塞方式から自動閉塞方式に改良され、2020年現在は全線の電化が完了し、複線化工事も進められています。

この旅行のときに通過駅で見たタブレット受柱です。

 

これは使用状態ではないタブレット受柱ですが、私が乗車した自強号も走行中のタブレット授受を行っていました。

視界の悪いデッキの扉の窓からなので、上手く撮影できませんでしたが、日本の鉄道の通過列車のタブレット交換と全く同じで、駅長または助役が列車から受柱に投げ入れられたタブレットを指差喚呼の動作をしながら受領の確認をしていました。

 

1960年代の山陰本線丹波口駅の写真です。左側の下りホームに通過列車用のタブレット(国鉄時代は「通票」)受柱を使用しないときの置き場所に置いてあるときの状態です。タブレット受柱は、通過列車に使うときに限り、受柱をプラットホームの所定位置まで柱ごと移設していました。

当時のディーゼルカーの自強号の運転台の後方にはタブレットを受け取るときのための防護板が運転台窓の後方やや下に取りつけられていました。走行中にタブレットを受け取るため、ここにタブレットキャリアのタマの部分が激突する場所です。

タブレットキャリアとタブレット(タマ=通票)です。

1988年に撮影した通過列車の特急あさしおがタブレット授柱からタブレットキャッチャーでタブレットを受け取っているところです。

このキハ181にも乗務員用扉の後方に防護板(プロテクター)が着けられていました。

台湾の自強号は日本の特急列車に相当する列車ですので、このときの台東線では、これと似た通過風景(通過列車のタブレット交換)だったのです。

 

オホーツク

1983年に函館駅で撮影したキハ82形時代の特急北斗のタブレットキャッチャーです。この写真では判然としませんが、運転台のすぐ後ろの乗務員室の窓ガラスに自強号の防護板と同じ目的の防護柵が取りつけられていました。

 

キハ26400

1971年に撮影した元急行用車両のキハ26です。タブレットキャリアを受け取る運転席窓の後ろの乗降扉の窓に、これもまた同じ理由により防護柵が取りつけられています。

 

2003年当時の台湾の台東線の非自動閉塞方式時代の腕木式信号機です。この5カ月後に腕木式信号機と非自動閉塞方式が廃止されました。

 

島根県の旅

1985年に撮影した福知山線の特急まつかぜと武田尾駅の下り腕木式信号機です。赤色が場内信号機で黄色が通過信号機です。

 

台東駅に着きました。台東線はここで終わり、この台東駅から枋寮駅までは1992年に全通した南廻線です。この南廻線の開通により台湾の環状鉄道が完成しました。

 

台東駅では、しばらくの停車時間があり車内が禁煙でしたので、プラットホームに出てタバコを喫煙しながら休憩をしている台湾人の乗客が何人かいました。

 

台湾最大の大温泉地「知本温泉」の玄関駅である知本駅です。昔から有名な温泉地ですが、南廻線の開通後に大きな温泉旅館が建てられるようになったということです。

 

左側の車窓に太平洋が見えてきました。

 

山側の座席で、満席に近かったため、列車のデッキに出て海側を撮影しました。

自強号のデッキ近くに休憩スペースがありました。右側のゴミ箱の上にあるのは簡易なウォーターサーバーでした。

 

美しい太平洋の海岸です。

 

南廻線が走っている台湾南部は沖縄県の石垣島よりも南に位置します。それでもなお、香港やマカオと同じぐらいの緯度です。

 

ここで南廻線から屏東線に変わる枋寮駅です。

停車中の列車は現在は「普快車」という呼び名に変わっていますが、当時は「普通車」でした。たしか、非冷房客車である旧式なタイプの藍皮車の末期は日本のレールファンからも注目されていたという記憶があります。

宮脇俊三氏の「台湾鉄路千公里」(1980年刊行)のときには南廻線がまだ開通しておらず、この駅が台湾の鉄道最南端の終着駅でした。

 

南州糖廠のサトウキビ列車(シュガートレイン)の貨車です。南州糖廠は、この2003年に製糖工場としての操業を停止し、その後、観光業として製糖工場の施設見学やサトウキビ列車を活用した観光列車の運行していたようですが、今は観光列車もなくなっているそうです。
南州糖廠(糖廠は製糖工場の意味)は、戦前の台湾製糖の東港製糖所が戦後に改編された会社だと思います。台湾では、日本統治時代の台湾総督府第4代総督の児玉源太郎(1898年に着任)と民政長官の後藤新平によって、台湾の産業振興と資本主義的な発展を目指し始めました。その中心が製糖業だったのです。戦前の台湾製糖に鳥居信平(とりいのぶへい)という日本人技師がおり、その人が台湾南部の屏東県の林辺渓に、伏流水を灌漑用水に利用する地下ダムを造りました。このダムは、今も農業用水や飲料水を供給しており、鳥居信平が考案した地下ダムは台湾の地域住民の生活向上に大きく貢献したといわれています。そのため、台湾と鳥居信平の故郷である静岡県袋井市の双方に鳥居信平の銅像が建てられているそうです。
台湾で活躍しした日本人といえば台南市に烏山頭ダムを造った八田與一が一番有名ですが、あまり知られていないけれども、鳥居信平も居たのだということを、ここで書いておきました。

コーヒーに砂糖入れる派?入れない派?

糖質制限のため砂糖は入れません。

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高雄駅に着きました。

 

この2003年時点では、まだ高雄には高鉄(新幹線)も地下鉄も存在しませんでした。画像中央で地下鉄の建設工事を行っていました。

高雄駅から向かった宿泊先は、高さ347mの「高雄85ビル」内のホテルでした。このときは台北101がまだ建てられていませんでしたので、このビルが台湾一の高層ビルだったのです。

 

「高雄85ビル」内のホテルで宿泊した部屋は230mぐらいの階でしたので、この後に宿泊した大阪マリオット都ホテルの270mぐらいの階のほうが高い場所でした。それでも普通の100m超級の高層ビルが低く見えるほどの高さでした。

ただし、ホテルの周辺に飲食店がなく、ファミリーマート(全家便利商店)で夕食用の弁当を購入しました。そして、宮脇俊三さんが「油っこく、独特の香料が鼻について、ほとんど食べられなかった」と書いた、台湾の弁当を食べ始めたのですが、やっぱり香料の匂いが気になり、三分の一ほどを食べ残しました。

(つづく)