師走の京を歩く(4)丹波口駅の思い出の巻 | 鉄道で行く旅

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タイトルは前シリーズと連番になっていますが、日を改めて、先週の金曜日に再び京都まで出かけました。

新快速の指定席車(Aシート)に乗る予定が、この日に茨木駅で接触事故(人身事故)がありダイヤが大幅に遅れていたため、新快速ではなく、先発の快速で京都駅に向かいました。ラッシュ時の外側線(急行線)快速と内側線(緩行線)快速がダイヤの乱れにより大阪駅を同時に出発し、大阪駅で先発だった内側線快速が「茨木駅で外側線快速に抜かれます」という内側線快速車掌のアナウンスがあったので、画像の茨木駅で内側線快速から外側線快速に乗り換えるところです。

 

高槻駅まで外側線を走った快速は高槻駅から普通電車になるため内側線に移りました。

山崎駅付近で後発の新快速に抜かれましたが、京都駅着時間はそれほどの遅れではありませんでした。

 

京都駅でJR嵯峨野線(山陰本線)の普通電車に乗り換えて梅小路京都西駅へ。

 

梅小路京都西駅の東側です。手前に2019年12月にオープンしたVIVA SQUARE KYOTOというスケートリンクができていました。

また、日本通運京都支店梅小路倉庫跡に新しいホテルを建設中でした。仮称「ザ・ロイヤルパークホテル京都梅小路(三菱地所グループのビジネスホテル)」だということです。

 

そのためか京都市電保存車の2001号が以前よりも南側に移転していました。

 

午前の目的地は5回目の訪問になる京都鉄道博物館ですが、その前に梅小路京都西駅の西側の東海道本線支線(梅小路~丹波口間の貨物線)跡の高架橋を利用した歩行者用通路を見物しました。

左奥が京都鉄道博物館で右側の高架線のようなものが東海道本線支線の廃線跡です。

かつては221系の「嵯峨野嵐山ホリデー号」のルートでした。私は、それよりも前の平成元年の秋のディーゼルカー(キハ58系)時代の「嵯峨野嵐山ホリデー号」で、この区間を通過したことがあります。この梅小路のところで徐行というよりも、しばらくの間の停車があるなど、京都駅での乗り換えは必要ないものの速達性もない列車でした。その車内を、ざっと見た感じでは、乗客の約3分の2ぐらいはレールファンでした。

 

梅小路京都西駅側の歩行者通路の階段を上がったところの南西側です。廃線跡が続いていますが、こちらは通行禁止になっていました。

 

北側に向かっている通路です。床のタイルが鉄道の軌道のようなデザインになっていました。

左奥が現在は建て替え工事中の京都市中央卸売市場です。

この通路で渡ろうとしている場所は七条通りの真上です。

昔は山陰本線と京都市電が立体交差していたところです。山陰本線は平面(地上)の場所を走っていましたので京都市電は七条壬生通と七条千本の間で山陰本線をアンダーパス(アンダークロス)することにより立体交差していました。

 

高架橋にある、この施設に関する説明です。

 

通路の突き当たりの金網越しに見た、東海道本線支線と山陰本線の接続箇所の跡地付近です。

 

ついでに梅小路京都西駅の下りホームから見たJR嵯峨野線丹波口駅方面と東海道本線支線の接続箇所跡です。

他の場所はスラブ軌道ですが、この接続箇所跡の下り線のところだけはバラスト軌道になっています。

 

この後で、京都鉄道博物館の館内で見た昔の丹波口駅の駅名標です。

丹波口は京の七口の一つです。

京の七口には諸説があり、七口と呼ばれる場所が九ヵ所もあります。それが「鞍馬口、大原口、荒神口(今道の下口)、粟田口(三条口)、伏見口(五条口)、竹田口、東寺口(鳥羽口)、丹波口、長坂口(清蔵口)」です。

 

高架化前の丹波口駅は高架化後の丹波口駅よりも500mほど南寄りにありました。

丹波口駅の高架化の後に執筆・刊行された水上勉氏の「停車場有情(1980年・角川書店刊・・・後に朝日文芸文庫から文庫版が出ています)」に移転前の丹波口駅についての水上氏の思い出が記されています。

水上勉氏の記述を要約しますと『(昔の丹波口駅は)これが京都の町なかにある駅かと驚かされるほど貧相だった』『駅前通りは遊郭(島原)の裏口だった』『さいきんになって、この丹波口駅を見物にいった。 (中略) まっすぐ通りを歩いてゆくと高架線につき当り、あの懐かしい駅舎をさがしたがなかった。丹波口駅は五条通りへ越したそうだった』などのことが書いてあります。

引用者注:島原は1958年に遊郭ではなくなり、普通の花街として存続しましたが1976年に島原の花街全体が京都花街連合会から脱会し、現在は花街ではなく観光名所になっています。

 

『停車場有情』にも出てくる島原の大門です。(2019年8月)

 

島原の輪違屋です。島原全体としては今は花街ではなくなっていますが、この輪違屋だけが「お茶屋」として営業を続けています。(2019年8月)

 

島原の角屋です。(2019年8月)

 

京都鉄道博物館に展示されていた昔の丹波口駅の写真です。(昭和40年代の前半だと思います。1965年~1968年頃か?)

私は、山陰本線の『(現役の)汽車』に乗ることだけを目的として、高架になる前の丹波口駅を一度だけ利用したことがあります。

この写真の右側が京都行のホームで、左側が園部・福知山行のホームです。駅の左側一帯が京都卸売市場です。

左のホームのやや左寄りに通票(タブレット)の受柱が置いてあります。この時代は、下りホームと上りホームの間の跨線橋はなく、構内踏切でした。それもプラットホームに設けられたスライド開閉式の鉄板の下に階段が隠れている昔懐かしいタイプの構内踏切でした。昭和40年代は山陰本線や福知山線には、まだ鉄板スライド式の隠し階段になっている構内踏切が何カ所かの駅に残っていたのです。

この写真の二条駅側に跨線橋が写っていますが、これは島原住吉神社の近くに昔あった跨線橋だと思います。

とにかく、これが京都市内の駅なのだろうかと思うほどの古い施設がそのまま残っていた駅でした。

 

京都駅1968-1971

丹波口駅まで乗車した山陰本線の汽車(梅小路区のC57)です。左が当時あった機回し線なので、この左奥にある京都中央郵便局の手前あたりに蒸気機関車用のターンテーブルがありました。(1968年10月・京都駅山陰線ホーム)

 

丹波口

丹波口

山陰本線

1970年に現役時代の国鉄梅小路機関区を見学したときに撮影した山陰本線の汽車(C57)です。

 

付録:山陰本線の貨物列車

1969年12月に嵯峨駅(現在の嵯峨嵐山駅)で撮影したDD54が牽引する貨物列車です。

 

保津峡駅

山陰本線の旧線(現在の嵯峨野観光鉄道)の保津峡駅を通過するD51牽引の貨物列車です。(1969年4月)

 

丹波口駅の思い出はこれぐらいにします。この後、京都鉄道博物館に向かいました。

 

京都鉄道博物館前から見た東海道本線支線(梅小路~丹波口間の貨物連絡線)の高架線跡と名鉄観光バスです。

 

これが目的ではありませんでしたが、2019年10月14日(月・祝)から2020年1月31日(金)までの期間限定の489系の白山色ラッピングです。

この日のヘッドマークはシュプール号でした。

かつてのJR西日本のシュプール号のCMに出ていたタレント(イメージキャラクター)は南野陽子(JR西日本の初期)、西田ひかる(1987年以降の長期間)、往年の名スキーヤーであるトニー・ザイラー(1988年)、V6(1997年頃)などでした。

ふと坂本冬美さんの歌の歌詞が脳裏に浮かんできました。

♪能登はいらんかいね~ ふるさと能登はヨ~

↑レールファンの方には説明は不要だと思っていましたが、メッセージで質問がありましたので『489系の急行能登を思い出した』ということを追記しておきます。

 

これは手抜きというよりも489系の標準色を残しておきたかったのでしょう。

(つづく)