由比正雪を歩く(1997年11月) | 鉄道で行く旅

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今回は1997年11月に静岡県を旅したときの画像です。

新大阪駅から東海道新幹線で静岡駅に移動した後、静岡駅の在来線ホームで373系の「特急ワイドビューふじかわ」を見ました。

 

1996年のデジカメ

このときの旅ではオリンパスのデジカメ「CAMEDIA C800L」だけで撮影しました。

 

静岡駅から由比駅まで画像の113系に乗車しました。

 

逆光ですが、由比駅付近で撮影した113系です。この日の午前は結構寒かったことを覚えています。

 

由比駅前から30分ほど蒲原方面へ歩いたところにある由比正雪の生家と伝えられている染物屋の「正雪紺屋」です。

由比正雪は、江戸は神田の連雀町で子供相手の寺子屋を開き、それと同時に、旗本や各藩の藩士たちに軍学を教えました。正雪は秀才で博識だったそうです。

 

日本史探訪(柴田錬三郎)からの引用です。

関ヶ原から51年。
正雪はなぜ、幕政への反抗を企てたのであろうか。
 浪人救済のために幕政の改革を訴え、しいて倒幕を図ったとするのが史家たちの通説である。

反乱者である由比正雪の墓がちゃんと(徳川時代に)造られているというのは、ほんとうは民衆の人気がそこにあったということじゃないかなあ。不可能に近いことを、しかもたった一人の知恵でやったところに、民衆は喝采したのでしょう。

 

由比本陣公園・東海道広重美術館です。

ここは東海道五十三次の十六番目の宿場町「由比」の本陣があった場所です。

本陣の一部を復元した公園の中に、歌川広重(安藤広重)の浮世絵や由比宿の歴史を展示しています。

 

たきぎ、蝋燭あんどん、油あんどん、提灯、電灯など、時代とともにに変遷していった明かりの歴史を展示している「由比宿 東海道 あかりの博物館」です。

 

由比駅の西側(興津寄り)には倉沢・寺尾という旧東海道の面影が残る町並みがあります。

歌川広重が描いた東海道五十三次「由井」(昔は由比ではなく由井と書きました)は、写真の場所よりもさらに興津寄りにある「さった峠」の風景です。

この場所からでも、何とか富士山が見えており、静岡県は景色も気候もよく、日本酒も旨いし、たいへん良いところだと思いました。

 

東海道本線で静岡駅方面に戻りました。まだ113系が主力の車両でした。

 

たぶん草薙駅で静岡鉄道に乗り換えて静鉄の古庄駅で下車しています。

ここからかなり歩いたところに由比正雪の首塚があります。

謎の多い慶安騒動(俗に「由比正雪の乱」と言われていますが実は未遂事件です)の後、幕府は家光の叔父でもある紀州公・徳川頼宣(よりのり)に10年間の江戸蟄居という厳罰を下しています。これは由比正雪が徳川頼宣の書状を持っていたからでした。最終的には偽造した書状と判定されたことになっているものの徳川頼宣は10年間も紀州に帰国することが許されませんでした。

 

静鉄の新静岡駅から駿府城まで歩きました。

静岡市役所の本館です。クラシックで好感が持てる建築です。

 

由比正雪と静岡の関係は深く、正雪は賤機(しずはた)山の近くにある臨済寺に寺小僧として預けられていたそうです。(興津の清見寺という説もあるようです)
そして、慶安4年7月、正雪は反乱を起こす直前に、現在の静岡市梅屋町の宿で事態を知った役人たちに発見されてしまいました。
このとき正雪は、幕政の非道を憂える遺書をしたためてから自害しました。享年47歳。死に臨んでまったく取り乱すところがなかったといわれています。(由比正雪に巻は、これにて終了です)

 

その静岡駅から大阪駅に帰るところです。

1997年ですので、ようやく300系が増えつつあるときで、その代わりに0系が減っていく時代でした。

 

帰りの下り東海道新幹線は静岡駅停車の0系「ひかり」を利用しました。普通車指定席が満席でしたので、やむなくグリーン車を利用しました。

この日は、この当時のシーズン終了後に静岡県の草薙球場で開催されていたパリーグオールスター東西対抗戦の試合日だったのです。(パリーグオールスター東西対抗戦は2006年に開催を終了しました)

それで、グリーン車の乗車口のところまで歩いて行ったら、オリックス関係者(ブルーウェーブ時代です)がいて、ファンにサインをしていました。よく見ると田口選手(当時)でした。まだ28歳だったはずです。

 

そして、静岡駅(新幹線)下りホームの「YUN YUN」の前でファンにサインをしていたのは仰木彬(1935年-2005年)監督でした。

この後、オリックスの仰木監督・田口選手と同じグリーン車で新大阪まで帰りました。

(おわり)