ゆいレール展示館訪問記 | 鉄道で行く旅

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沖縄の「ゆいレール」の旅の最終回です。

那覇空港駅に戻ってきました。

 

那覇空港のフードコートで昼食のジャワカレーを食べました。これは、帰りのANA便のプレミアムクラスで軽食が出るため、昼食を軽めにしたのです。

那覇空港駅から「沖縄都市モノレール株式会社」の本社まで歩きました。画像は「ゆいレール」の本線と車庫への入出庫線が分岐するところです。

 

「沖縄都市モノレール株式会社」の本社前から見た那覇空港側です。離陸機も画像の中に写っています。

 

「沖縄都市モノレール株式会社」の本社の玄関です。やっぱり玄関にシーサーがいます。

 

「沖縄都市モノレール株式会社」の事業所の中にある「ゆいレール展示館」です。

 

「ゆいレール展示館」の内部の最初の部屋です。各駅の紹介などの展示でした。

 

ゆいレールの生みの親「高良 一」氏

沖縄にモノレール線を作ることを考えた「高良 一」氏に関する説明です。

1950年代から十数年間かけて沖縄にモノレール線を作る計画書を作成した方だということです。

沖縄の「小林一三」とか「五島慶太」と言っても過言ではないような人物だと思います。

また、「高良 一」氏は、牧志に戦後沖縄初の映画館「アーニー・パイル(←殉職した米軍従軍記者の名前から命名)国際劇場」を開館させた人であり、国際通りの発展を予見していた人物とされています。

これを読んで、米軍占領下時代の東京宝塚劇場(1998年までの旧建築)が進駐軍専用の娯楽施設になったときに「アーニー・パイル劇場(1945年-1955年)」と呼ばれていたことは知っていましたが、沖縄にも同名の映画館があったことを初めて知りました。

旧・東京宝塚劇場は東京のNHKホールが完成する前の1956~1957、1959、1961~1972年はNHK紅白歌合戦の舞台でもありました。

飛び出せ青春18

現在の東京宝塚劇場前です。(2014年8月撮影)

 

「ゆいレール展示館」に保存されている、たいへん貴重な沖縄戦以前の古レールです。

手前のレールが沖縄県鉄道(沖縄ではケイベンではなくケイビンと呼ばれていました)のレールです。

奥のレールが1914年から1933年まで運行されていた沖縄電気軌道(首里電車)のレールです。

 

沖縄の戦前の鉄道路線図と「ゆいレール」路線図の比較図のようなものです。

電気鉄道(路面電車)もあったのですが利用客が少なかったため昭和初期の1933年に廃止されています。これは馬車鉄道よりも消えるのが早かったようです。軽便鉄道(沖縄県鉄道)が沖縄戦の直前まで運行されていました。

 

沖縄戦以前の沖縄の鉄道の写真です。

 

1968年から2008年まで旧国鉄・JRの新大阪~西鹿児島(現在の鹿児島中央)間で運行されていた沖縄に因んだ列車名の「特急なは」のヘッドマークが展示されていました。

JR九州タイプのヘッドマークです。JR九州から沖縄都市モノレールに正式に寄贈されたものでした。

 

24系客車のものと考えられる「特急なは」の方向幕です。

 

ピンぼけ写真ですが、1970年に撮影したキハ82形時代の特急「日向・なは」です。

九州方が「日向」(画像上)で大阪方が「なは」(画像下)でした。

 「特急なは」運行開始時はキハ82形による昼間特急でした。新大阪~小倉までは日豊本線宮崎発着列車である「特急日向」と併結されていたため、大阪方では特急「日向・なは」と呼ばれていました。

 

1971年に撮影した485系の特急みどり(新大阪~大分間の時代)です。山陽新幹線開業・延伸後は、これと同形の485系電車により「特急なは」が運行されていました。新大阪駅発着ではなくなっていたため、私は485系電車時代の「特急なは」を見た記憶がありません。

 

大阪駅1985年

1984年から特急「なは」がブルートレイン(客車寝台特急)になり2008年まで24系客車で運行されました。

1987年に新大阪から熊本まで「特急なは」のB寝台に乗ったことがあります。

 

「ゆたかはじめ(ペンネーム)」氏が寄贈した鉄道関係コレクションが展示されていました。C623号機のナンバープレートなどもありましたが、ここでは個人的な趣味により、ごく一部だけを紹介します。

特急はやぶさのヘッドマークです。東京~九州間のブルートレインでは「あさかぜ」「さくら」「みずほ」も有名でしたが、個人的には鹿児島までの長距離列車だった「はやぶさ」と「富士」が好きでした。

 

たった一度だけ東京発九州行のブルートレインに乗車したのは「特急はやぶさ」が唯一です。乗る機会が普通にはないため、一生の思い出として1992年に東京駅から「特急はやぶさ」に乗車しました。

(大阪発の「あかつき」「明星」「なは」には何度か乗っています)

↓「ゆいレール展示館」の展示品ではなく私のコレクションです。

特急はやぶさのA個室「シングルデラックス」に乗車したときに乗客専務車掌(JR九州が担当)から買った乗車記念オレンジカードです。

左下のJR西日本のカードキーは、その帰りに博多から新大阪まで乗車した100系新幹線の1階個室のカードキーだと思います。

このときの特急はやぶさは、まだ食堂車つきでしたので、食堂車で夕食にビーフシチューを食べた思い出があります。

2016年11月に大宮の鉄道博物館の「旅のレストラン日本食堂」で食べた食堂車の再現メニューと思われる「ビーフシチュー」です。

 

クモハ42

特急はやぶさのA個室「シングルデラックス」で迎えた朝です。なぜかA個室客へのサービスの朝刊が「♪色(いろ) 優(やさ)しく 神戸新聞~」でした。

 

南九州

西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)の特急はやぶさです。

 

現在の「はやぶさ」は東北新幹線・北海道新幹線の列車名です。

北海道新幹線

北海道新幹線

北海道新幹線

2016年4月の北海道新幹線「はやぶさ」乗車時の画像です。こういうのや国際線ファーストクラスへのアップグレード搭乗などは、昔の「特急はやぶさのシングルデラックス」とは違って「一生の思い出」にはなりません。

それは、少年時代に憧れた場所が「シンプロントンネル」ではあっても、決して「ゴッタルドベーストンネル」ではないというのと同じです。

 

「ゆいレール展示館」に戻ります。

これも「ゆたかはじめ(ペンネーム)」氏が寄贈したコレクションの一部です。左が「関門トンネルの掘削部の岩石」、右が「北海道の炭坑の石炭のかけら(黒ダイヤ)」です。

ペンネームの「ゆたかはじめ」というのは元裁判官でレールファンの石田 穣一氏であり、退官後に沖縄キリスト教短期大学教授を務めた関係により鉄道のコレクションを沖縄に寄贈されたようです。

 

「ゆいレール展示館」を後にしました。「おきぎん」広告編成のモノレール車両を見ました。

 

帰りはANAの777-200のプレミアムクラスでした。しかしながら、Wi-Fi Serviceがない機材でした。

 

伊丹空港まで順調に帰ってきたのですが、伊丹空港から梅田までの空港リムジンバスでアクシデントがありました。阪神高速の梅田出口付近で事故があり渋滞したのです。

塚本駅の近くで空港リムジンバスが完全にストップしました。ん、これは塚本ドライビングスクール跡のジェイグランシティ塚本ではないでしょうか。

(おわり)