紀伊中ノ島駅付近を歩く(前編) | 鉄道で行く旅

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5年ぶりに阪和線の紀伊中ノ島駅周辺を歩きました。前編は紀伊中ノ島駅の再訪記です。

大阪市内から紀州路快速で紀伊中ノ島駅へ。

「紀州路快速」は完全に名前負けしており、昔の「区間快速」程度の停車駅なのです。

 

少年時代に撮影に来たことがある山中渓駅にも紀州路快速は停車します。

 

和泉府中駅再訪記のときの画像です。(1971年・山中渓駅付近)

 

六十谷駅です。有吉佐和子さんの小説「紀ノ川」では、「紀本花」の嫁ぎ先の真谷家が、この「六十谷(むそた)」になっていました。小説の設定では真谷家も旧家ではあったものの紀本家よりも家格がかなり低く、封建時代の尾を引いていた当時では両家の結びつきは考えられないことでした。ところが、「紀本花」が選んだのは結婚相手の家格よりも人物「将来有望な長男の真谷敬策(結婚時は村長で最終的には衆議院議員)」を重視して真谷家を選んだのでした。

(注)真谷家のモデルになった有吉佐和子さんの祖母の嫁ぎ先は、六十谷ではなく、南海加太線沿線の木ノ本(最寄り駅は八幡前駅)の旧家(庄屋)でした。

 

今は阪和線ホームだけになっている紀伊中ノ島駅の古レールの支柱です。

 

この古レールの製造年は1903年のようです。

 

左寄りのマークが〇にSですので、官営八幡製鐵所が製造したレールです。

官営八幡製鐵所の製造ラインが安定したのが1904年以降とされていますので、1903年というのは、官営八幡製鐵所のごく最初期に製造されたレールということになります。

 

紀伊中ノ島駅の阪和線ホームの南側にある和歌山線廃線跡の上に残っている跨線橋です。

 

和歌山線が紀伊中ノ島駅を通っていたころの地図です。

・東和歌山駅が和歌山駅に、それまでの和歌山駅が紀和駅の駅名に変わったのは1968年2月1日でした。

・和歌山線の田井ノ瀬~紀伊中ノ島~紀和(旧・和歌山)間の廃止は1974年10月1日でした。

・田井ノ瀬~和歌山(旧・東和歌山)の路線は1961年に貨物列車専用に短絡線として作られたものです。1970年頃の汽車時代の和歌山線・紀勢本線の客(貨)車区が紀和駅(旧和歌山駅)にあったため、客車列車の仕業の都合により、和歌山側の客車列車の始発駅を、どうしても和歌山市にしておかなければならないという構造になっていました。

 

連続立体交差事業により昔の面影がなくなっている紀勢本線の紀和駅(旧・和歌山駅)です。

 

この2014年の和歌山訪問時には総本家駿河屋の駿河町本舗で休憩しました。

 

紀伊中ノ島駅の説明に戻ります。

現在の紀伊中之島駅和歌山線ホーム跡と駅舎の間です。

 

紀伊中ノ島駅の和歌山線ホーム跡の現状です。駐輪場の整備などにより旧ホームが、かなり削られたような感じがしました。

 

阪和線の跨線橋を和歌山線の軌道跡から眺めました。

 

旧和歌山線の跨線橋を通過する287系の特急くろしおです。

 

なお、紀勢本線の特急くろしおの車両は全て直流電車ですので、旧・特急しらさぎ編成も683系2000番台を直流専用車に改造した289系です。

 

ハローキティ和歌山号

この他にオーシャンアロー編成の283系の特急くろしおもあります。(2014年9月撮影)

 

5年前の画像を再確認したら、やっぱり旧・和歌山線ホームが現在よりも和歌山線の区間廃止時の状態に近かったようでした。

 

この駅舎は和歌山線沿線の町村から「阪和電気鉄道との乗換駅を作って欲しい」という請願を受けた鉄道省が自ら作った駅舎です。

 

この時代の鉄道省の地方駅としては、かなり異色な建築物です。それでも、鉄道小荷物の取り扱いなどの駅設備の仕様は鉄道省の駅らしいものであり、JR(旧国鉄)の建物財産標でも1935年(昭和10年)に建築された駅舎になっています。

 

【追記】鉄道省が紀伊中ノ島駅を作る段階では、阪和電気鉄道の阪和中之島駅(移設前)の移設予定はなかったため、鉄道省は阪和中之島駅(移設前)の方角に合わせて、北側に出入口がある紀伊中ノ島駅の駅舎を作ったのです。

鉄道省の紀伊中ノ島駅の新設に関する経緯を要約すると下記のような順になります。時間軸を意識しながら、その都度の発生事象を捉えたものです。 ・・・ 収集情報は本シリーズの「後編」にも記載しています。

1.1932年1月1日。阪和電気鉄道が中之島駅を設置し営業を開始する。

2.1932年1月15日。阪和電気鉄道は、この日に社内の都合により中之島駅を阪和中之島駅に改称した。

3.和歌山線沿線の町村長が鉄道省に「阪和中之島駅の近くに『阪和電気鉄道』と乗り換えるための和歌山線の新駅を作って欲しい」という要望を出した。

4.鉄道省が和歌山線沿線の町村からの要望に応えて紀伊中ノ島駅の新設を決め、阪和中之島駅(移転前)の方角に合わせて和歌山線全体の玄関駅にふさわしい紀伊中ノ島駅の駅舎の新設工事を進めた。(←当時の新聞に「鉄道省が新駅を開業」させる旨の記事が出ています) 

5,鉄道省の新駅設置を知った阪和電気鉄道が阪和中之島駅を紀伊中ノ島駅の場所に移設したい旨の申請を行った。

6.1935年1月1日。鉄道省・紀伊中ノ島駅(新設駅)と阪和中之島駅(移設後の駅)は一旦は別々の駅として営業を開始した。

7.1936年6月10日。乗換客の順調な増加を見たうえで共同使用駅への転換を実施した。 → 1936年9月25日に阪和中之島駅の駅舎を撤去

 

紀伊中ノ島駅の駅舎の内部です。左側が出札口で、その右奥は、現在は死語である、鉄道小荷物(チッキ)の窓口の跡です。今では説明することさえ難しいのですが乗客の手荷物だけではなく、乗客の小荷物輸送も取り扱っていました。小荷物の自宅への配達はなく、(*)小荷物の授受は双方の駅(最寄り駅など)で行う必要がありました。

(*)晩年の1982年から1986年の間は宅配便との競争により集配サービスを付加した「宅配鉄道便Q」が実施されていました。

 

1985年に大垣駅で撮影した荷物電車のクモユニ147です。旧国鉄の鉄道小荷物(チッキ)は1986年に廃止されました。

 

もう一度、紀伊中ノ島駅を眺めました。

 

和歌山線が、この駅を通っていた1970年頃に、この駅を3度も利用しました。もちろん鉄道に乗ることだけが目的でした。

 

1970年頃は、今とは違い、クルマがそれほど普及していなかったため、この駅で乗り換える乗客がかなりいて、和歌山線ホーム・阪和線ホームともに賑わっていました。

1970年頃によく乗った阪和線の70系です。

 

1971年に和歌山市駅で撮った普通列車のディーゼルカーです。先頭車はキロ25格下げのキハ26の400番台でした。回転クロスシートはキロ時代のままでした。

(つづく)