阪神北大阪線の廃線跡を歩く(後編) | 鉄道で行く旅

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阪神北大阪線の廃線跡を歩くの後編です。

北野電停からの続きです。阪急電車の下をくぐった後、右に曲がっていたところです。北大阪線は道路の右寄りを走っていました。正面は済生会中津病院ですが、1931年(昭和6年)4月に十三に移転するまで旧制の北野中学校(現在の北野高校の前身)があった場所です。今ある淀川区の「新北野」という地名は、学校移転後に学校名に合わせて命名されたもので、本来の北野の地名は、この中津付近が起源です。

参考のために、森繁久彌さんが進学校である旧制・北野中学校(この時代の旧制中学は5年制)に在学していた年代を調べたところ1925年~1931年(3月)のようです。当時の旧制中学校は5年制なのですが森繁さんは1年落第していますので6年間の在籍です。(森繁久彌は45期生として卒業・・・卒業時は野間宏と同級生)

 

北野

そういうことから、森繁さんが通学していたのは入学から卒業まで中津の時代の「旧制・北野中学校」であることが判明しました。移転後の十三(現在の新北野)の校舎とは縁がなかったことになります。

数学者の森毅さん(58期)や手塚治虫さん(59期)などは十三に移転した後の旧制北野中学校の卒業者です。

 

阪神北大阪線が走っていた頃の中津付近の地図です。(1970年頃)

 

野田方面へは右に曲がって阪急電鉄の南側にある勾配区間を登っていきます。

 

北野から中津に向かう勾配区間の跡地です。道路も拡幅されていますが、廃線跡のところは歩道も広くとられています。

 

勾配を登り切ったところで登ってきた北野側を振り返った場所の風景です。阪急京都線(線籍上は宝塚本線の増線部分)を5300系が走っていました。

 

同じ場所で撮影した阪神国道電軌1形です。(1970年頃)

阪神北大阪線は、1927年(昭和2年)に開業した国道線よりも歴史が古く1914年(大正3年)に開業しています。

北大阪線開業時は、四輪単車の501形車両が使われていました。中津では箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)と阪神北大阪線が平面交差をしていたようです。

 

国道線

元々は国道線用として1927年にデビューした阪神国道電軌1形です。(開業時の絵ハガキ)

 

国道線

デビュー時の阪神国道電軌1形の車内です。(開業時の絵ハガキ)

引退するまで車内のデザインは変わっていなかったと思います。

 

晩年は阪神北大阪線でも活躍した阪神国道線の『金魚鉢』です。(1970年・国道線野里)

 

阪神国道電軌1形は2モーター式だったため出力が弱く、国道線では使い難い車両でした。このため、1970年頃の阪神国道電軌1形は北大阪線専属のような感じでした。それも、国道線系統の運行区間の縮小とともに4モーター式の車両が北大阪線で使われるようになり阪神国道電軌1形は1974年の上甲子園~西灘間の部分廃止のときに引退しました。

 

かつては鉄道橋が4つ(阪急×3、阪神×1)も並んでいたJR梅田貨物線(東海道本線支線)の跨線橋のところです。阪神のトラス橋が撤去されて道路と歩道になっています。

 

たまたま、JR梅田貨物線(東海道本線支線)を「特急くろしお」が通過しました。

 

阪神北大阪線の中津電停跡付近です。

 

在りし日の中津電停と阪神国道電軌1形です。

 

中央の道が昔の「東大淀」に向かう方向です。

 

大阪シティバスのバス停がありました。中津~野田阪神前間は、いまでも地下鉄などの鉄道がないため路線バスが走っています。

阪神バスも、この取材時は中津~野田阪神間のバスはそこそこ走っていましたが、2018年12月改正で運行本数が減り、平日は朝夕だけの運行になり、土休日は昼間だけの運行に変わりました。

阪神バスは2023年12月21日(木)、国道2号と大阪市内を走る一部路線について、運行を休止すると発表しました。休止は2024年1月13日からです。

「阪神国道線」の名残である野田尼崎甲子園線も、野田阪神~阪神杭瀬駅北、阪神杭瀬駅北・JR尼崎~阪神甲子園の系統がまるごと休止。野田阪神前~阪神杭瀬も北大阪線と同じく「土休日の朝1往復だけ」になっていましたが、いよいよ休止され、ついに阪神バスは大阪市内を走らなくなります。
そして残る「阪神国道線」の阪神尼崎~阪神西宮すらも、平日は9時台以降、土休日は12時台以降で減便となります。

 

中津から野田阪神までの阪神北大阪線(青色)の地図です。茶色は阪神の国道線です。(1970年頃)

 

江戸時代末期の古地図です。新淀川の開削は明治時代ですので、まだありません。その代わりに今はない中津川が流れており、大阪~神戸間の官設鉄道開業時に地図上の「塚本村」の近くの中津川(十三川)に架けられた鉄道橋が十三川橋梁(後の下十三川橋梁)です。

 

長柄運河

1874年(明治7年)5月11日に開通した十三川橋梁(下十三川橋梁)の錬鉄製ポニーワーレントラス橋を転用した浜中津橋(中津7丁目)です。

 

北大阪線の廃線跡に戻り、昔の「中津南通(現在の中津6丁目)」に向かう坂道を下ります。

 

東大淀電停跡付近で見た「いよてつバス」です。このあたりは大阪駅や新大阪駅発着の長距離高速バスがよく通過します。

 

東大淀電停跡の西側にある延原倉庫の煉瓦塀です。左はライフ大淀中店です。

 

大淀電停跡の西側です。これは日本ペイントの大阪事業所だと思います。

 

このあたりが、阪神北大阪線が新淀川左岸に一番接近していた場所です。新淀川左岸の堤防が見えました。

 

大阪シティバスが通過します。

 

西大淀電停の西側です。東海道本線(JR神戸線)の下をくぐり抜ける場所です。

 

1960年代~1970年代にかけて新淀川の防潮堤の嵩上げ工事に伴い東海道本線の下淀川橋梁が架け替えられのですが、架け替え前の低い橋梁に向かう旧線跡の一部(昔の上り線の跡)が残っていました。

 

1969年に新淀川右岸の塚本駅側で撮影した上り線が旧下淀川橋梁時代の東海道本線です。DF50が福知山線の普通列車を牽引しています。

塚本駅と野里

80系電車が走っているのが下り線の新橋梁(移設後)で、中央のトラスなしの橋梁が使用を停止した旧下り線橋梁です。(1968年)

その旧下り線の橋梁を架け替えたのが現在ある上り線の新橋梁です。

この時点では、まだ現役だった一番手前の古いトラス橋が当時の上り線の橋梁でした。最終的には、この旧上り線のところが使われなくなりました。

塚本駅から見た現在の下淀川橋梁です。(2018年1月)

左側のトラス橋が現在の上り線で、昔の下り線の橋梁跡に架け直した橋梁です。その左側が旧上り線の撤去跡です。

 

この取材のときは、まだそこそこ走っていた中津行の阪神バスです。上海老江電停跡付近です。

 

海老江電停跡付近です。野田駅前にある阪神本社ビルの一つ手前の阪神野田センタービルが見えてきました。

 

阪神本社前の石碑です。文言はありきたりなものなので、それは説明しませんが、石碑の下の礎石に阪神軌道線(路面電車)の敷石だった石が使われています。

 

阪神野田駅に着きました。

 

軌道線のターミナルだった野田電停跡です。左側が北大阪線で、右側が国道線のホームでした。奥側が軌道線車庫で、周囲も軌道線関係の基地になっていました。

阪神の軌道線は、私にはあまりにも身近な存在だったため、それが無くなるという意識があまりにも薄く、ここにあった野田電停の写真を一枚も撮っていませんでした。

遠い親戚の病状は、その病気の良否を冷静に判断することができるのですが、それが実の親子や兄弟・配偶者だと完全に判断が曇ってしまう、というようなことと似ているような気がします。

(おわり)