堺市の大美野を歩く | 鉄道で行く旅

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2019年5月のある日に南海高野線の北野田駅に向かいました。

南海電車の難波駅で見た特急こうやです。本当は、これに乗りたかったのですが北野田駅は通過してしまいます。

 

やむなく橋本行の急行に乗りました。

 

堺市内の北野田駅です。まだ堺市長選挙の前でしたので、駅前に選挙運動の幟が見えています。

画像は南海バスが並んでいる中に入ってきた近鉄バスです。近鉄バスは富田林に向かうバス路線だと思います。

 

北野田駅前本通商店街という、いかにも昔からあるような商店街を通り抜けました。

 

駅とは反対側の商店街のアーケードの終了地点です。

 

この大美野田園都市は昭和初期の1930年に、ヨーロッパの田園都市になぞらえて開発された町で総面積40万平方メートルに及ぶ大規模な住宅地です。ジョルジュ・オスマンによるパリ中心部にある放射状の道路を真似るなど、斬新なまちづくりがなされています。関西でも戦前に「田園都市」の形で開発された場所は結構あるのですが、結局のところは平凡な区画の駅前住宅地に過ぎませんでした。

住宅地内に「田園都市」らしい円形道路があるという点では、東の田園調布(半円形)と西の大美野(円形)が双璧をなしていると申せましょう。(←ここのところは、今回の狙いであるため、ちょっと大袈裟に書いています)

田園調布の「半円エトワール」は渋沢栄一の四男であり田園都市株式会社の取締役だった渋沢秀雄のアイデアによるものです。

エトワールというのはフランス語で星の意味です。

 

 

円形道路の中心にある噴水です。噴水が常時使われているわけではないようでした。

 

大美野のモデルはジョルジュ・オスマンが改造したパリの中心部でした。

エトワール凱旋門です。

19世紀後半にセーヌ県知事を務めたジョルジュ・オスマン男爵による「パリ改造」により、上から見るとエトワール凱旋門を中心に大通りのデザインが「星(エトワール)」の輝きのような感じになっているパリの中心部です。エトワール凱旋門から出ている放射状の道路は12本もあります。

 

♪星の降る夜は~  ちゅるる ちゅるる ちゅるっちゅ~

 

クルマが減った瞬間に大美野噴水の近くまで肉薄してみました。これは心に響く「昭和」の風景です。

 

この大美野のロータリーから道路が放射状に8方向に分岐しています。田園調布と同じで開発当初は郊外住宅として中層クラスの人が住むような面積だったと思います。ところが、当初の区画のままの住宅地は現在では邸宅または豪邸クラスになっているのです。

今見ても、たいへん良い住宅地です。

 

南海バスのバス停名も大美野噴水前バス停になっています。

 

メインストリートを通って北野田駅まで戻ります。

日本生命の店舗があるあたりにも、昭和時代に街が繁栄したことがうかがえます。

画像に写っている黒いタクシー車は第一交通タクシーでしたので昔の南海タクシーが第一交通に継承されたものであろうと思います。

 

泉大津美原線の、この区間の通りの愛称は「大美野ファウンティン(噴水)通り」でした。

これを見たときに、サンテレビの昔の須磨浦山上遊園のCMに「ドレミファ噴水パレス」というものがあったことを思い出しました。

♪ドーム レインボー ミュージック ファンファーレ ドレミファ ドレミファ 噴水パレス ファ~

 

アジサイが咲いていました。どうしても、あまり好みではなかった「あじさい茶屋」を思い出してしまいます。

 

北野田駅の北側にある泉大津美原線の踏切です。南海電車の正式な踏切名は「萩原天神10号踏切」と呼ぶそうです。

 

北野田駅まで帰ってきました。

 

南海高野線の昔の写真はあまり撮っていませんでした。

1972年3月に新今宮駅で撮影した数少ない画像を貼っておきます。

6×6版のミノルタオートコードで撮影したフィルムを、無理矢理に35mmフィルム用のスキャナーでスキャンしました。

開業時は泉ヶ丘駅が終点だった泉北高速鉄道泉ヶ丘駅発着の南海6001系(後の6000系)難波行準急です。

6000系がまだ若々しいです。(笑)

泉ヶ丘駅が終点だったことなど自分自身でも忘れてしまっており、この画像をスキャンしたときに「この電車はなんで泉ヶ丘駅発なのだろう?」と思いました。

 

まだ新車だった頃の南海高野線ズームカーの増備車22001系(後の22000系)です。

 

「堺市の大美野を歩く」編は終わりですが、この旅は続きます。

(つづく)