「京田辺を歩く」の後編です。
一休寺(酬恩庵)の続きです。
今回は、なぜ加賀藩の前田利常公が領地から離れた一休寺に堂宇を寄進したのか?
というところからです。
1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」のときに、すでに加賀藩の3代目藩主になっていた前田利常公が大坂に向かう途中、木津川に陣を敷きました。そのときに一休寺に参詣したところ、一休禅師が書き残した数々の「おきて」などを見て、たいそう感心するとともに、一休禅師に尊敬の念を抱いたのです。
ところが、その一休ゆかりの寺があまりにも荒廃していたのです。それを見かねた前田利常公が、後に、酬恩庵の再興(堂宇の寄進は家督を譲った後の隠居後)に乗り出したということでした。
徳川家を警戒して(徳川家からも警戒されていたので)「うつけ者」のふりをしたことで知られている前田利常公ですが、実際には、たいへんな知識人であり名君でもありました。
一休寺の方丈に奈良の赤膚焼の大塩昭山氏の作品が展示されていました。
一休寺の開山堂の修復プロジェクトにクリエイターとして奈良・赤膚焼の大塩昭山氏が協力されているということです。
拙宅で使っている赤膚焼・大塩昭山窯の「飯茶碗」です。これは正月の七草粥のときに撮ったものです。
一休寺(酬恩庵)の方丈の東庭です。
一休寺(酬恩庵)の方丈の北庭です。この方丈の庭は、素晴らしい庭でした。
方丈から見た庫裏にある小さな鐘です。
方丈を後にしました。
境内図では無視されていますが、本堂に向かうところにも門がありました。
一休寺(酬恩庵)の本堂前です。
沙羅(別名はナツツバキ)の花が、少しだけ散り残っていました。
1429年から1441年の間に室町幕府の6代将軍である足利義教が建てた本堂です。「禅宗」寺院の仏殿の様式の建築です。
うまい具合に季節外れの紅葉を見ることができました。春から初夏に紅葉する木をよく見かけますが、春に紅葉が発生する原因はまだ分からないそうです。
紅葉と新緑と沙羅の花(ナツツバキ)です。
カメラを縦にして撮った画像です。画像のような景観の境内でした。
大正時代に改築されたらしい開山堂から見た一休像です。開山堂の土台部分の床のデザインは方丈と似ていました。
一休宗純の肖像画や墨跡などが展示されている宝蔵です。
ここも規模は小さいものの一見の価値がありました。
若き日の一休さん像です。
無駄なような気がするのですが、一休さんの知恵にあやかりたい人が多いのか、一休さんの頭がテカテカに光っていました。
睡蓮の花が咲いていました。
有名な一休さんの「とんち話」の駒札が掲げられていました。もちろん橋の真ん中を渡りました。
一休寺にある二十世紀の森です。前世紀に地元の人たちが作った羅漢像が並んでいます。製作者によっては現代アートのような感じでした。
一休寺(酬恩庵)の境内にあった華叟和尚の問い(禅問答の「洞山三頓の棒」の公案)に対して一休が答えた和歌です。
この和歌により、師である和尚から「一休」と名乗るようにと言われたのです。
一休寺の門前です。
ここは、金春(こんぱる)禅竹が一休のために能を演じた場所です。
金春(こんぱる)禅竹は室町時代の能役者であり能作者でもありました。金春禅竹は世阿弥の娘婿として教育を受け、地味な芸風ながら音阿弥とならぶ能の名人でした。金春禅竹の禅の師が一休禅師だったのです。
金春禅竹は今も続いている金春流の中興の祖です。
また、東京・銀座の金春(こんぱる)通りは江戸時代に能楽の金春家の屋敷があった名残りを示す地名です。
一休寺の見どころが思いのほか多かったため、予定では京都市内の中心部で食べようとしていた昼食を平和堂アル・プラザ京田辺のフードコートでとりました。この日は、やむなく『かつ丼おやじ』でございました。
昼食後は近鉄京都線の新田辺駅まで歩きました。
新田辺駅前の一休さんの銅像です。
新田辺駅から京都市交の10系車両で大久保駅まで移動しました。
近鉄京都線の1970年代の写真はほとんど撮っていません。唯一と思われる画像が1970年に京都駅で撮影した800系です。
大久保駅近くの商店街で見た喫茶店の名前が気になりました。
ヨハネス・ブラームスの晩年の顔のようなイラストの看板は出ていましたが、ちょっと入りにくい普通の家のような感じでした。
ブラームスの故郷であるドイツのハンブルクです。
右側に尖塔が見えています。そこがヨハネス・ブラームスが洗礼を受けた聖ミヒャエル教会です。
ブラームスの名前以外は脈絡のない話ですが、以前に、私とは違って有能な後輩に大阪・北新地のTaka barというバーに連れていってもらったことを思い出しました。バーの入口のサブタイトルに(TALK・WHISKY・BRAHMS)と書いてあったので、酔っていて他の文字をBrahmsと読み間違えたのかと一瞬は思ったのですが、店に入ってからバーテンダー(店主らしい)が無類のブラームス好きであることが分かりました。
たしか、引率者を差し置いてカルロス・クライバー指揮・バイエルン国立管弦楽団演奏の交響曲第4番を店内に流してもらった記憶があります。
ヨハネス・ブラームスの終焉の地のウィーンです。
画像の「ヴィーナー・ムジークフェライン(ウィーン楽友協会)」の大ホールが「グローサー・ムジークフェラインス・ザール(黄金のホール)」で、小ホールが「ブラームス・ザール」です。
ドイツ語のザールは英語のホールと同じ意味です。
近鉄大久保駅とは落差が激しいJR奈良線の新田駅です。現在の駅舎の建築年は不明だということです。
そのうちに橋上駅舎に変わるかもしれません。
新田駅から京都駅行の205系の普通電車に乗車しました。このところ103系を見る機会がありません。
この後、宇治駅で221系のみやこ路快速に乗り継ぎ、京都から大阪までは新快速で帰りました。
2011年4月に撮影したJR奈良線の221系電車です。
遭遇する機会が激減した103系の画像も入れておきます。(2011年4月)
(おわり)