遥かなるウェールズの煙 | 鉄道で行く旅

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今回は、これまでに何度か出かけた「英国鉄道の旅」の完結地として訪問したウェールズのスウォンジーです。

GWRのClass800とスウォンジー駅です。

 

駅名標の駅名です。上がウェールズ語のアバータウェーで下が英語のスウォンジーです。

スウォンジーにはウェールズ・トリニティ・セントデイビッド大学のスウォンジーキャンパスがあります。

 

GWRのローカル列車のディーゼルカーです。やはり顔は黄色い『警戒色』です。

 

スウォンジー駅の駅舎です。この駅の開業年は1850年(嘉永3年)です。

 

ウェールズ国内ではカーディフに次ぐ第2の都市であるスウォンジーです。街の発展のピークは1880年頃で、その後は重工業が衰退していったそうです。駅前のメインストリートは、やや寂れた感じがしました。いまでこそ衰退していますが産業革命以来の歴史がある都市ですので、スウォンジーは連合王国(英国)の留学先としては優れた環境のようでして、日本人留学生も少なからず居るそうです。

 

日本には英国やフランスから伝わってきたとされている理容店のbarber pole(日本ではサインポールと呼ぶようです)がありました。

この店の名のFigaro's BarbersのFigaro(フィガロ)という名前が少しばかり気になりました。まさか『セビリアの理髪師』という意味ではないでしょうね。

 

メインストリートにあるスウォンジー城の遺跡です。12世紀にノルマン人貴族のヘンリー・ド・ボーモントが建てたものです。

 

スウォンジーでは2軒の博物館を訪問しました。一つ目はスウォンジー博物館です。入場料は無料でした。

スウォンジーは1807年からスウォンジー=マンブルズ鉄道という世界初の旅客馬車鉄道が運行を始めたところです。その後、馬車から蒸気機関車、蒸気機関車からトラムに変わった後、第二次世界大戦後すぐに赤字になり廃止されてしまいました。

そのトラムなどの資料が、この博物館に展示されているということでしたが、この日はメインホールが閉鎖されており、資料を閲覧することができませんでした。まあ、スウォンジーで一番見たかったのはトラムの資料ではありませんので、次へと進みます。

 

続いて、国立ウォーターフロント博物館です。ここが遠路はるばるスウォンジーまで出かけることになった目的の場所です。

 

国立ウォーターフロント博物館に向かって軌道が敷設されています。

しかも、普通の軌道ではないようです。

 

平底レールです。車輪が通る場所は高い部分ではなく低いところの平底のところを通ります。内側の突起部分は車輪の内側のガイドレールです。

 

これは、世界で最初に走行した蒸気機関車の軌道と同じ形のような気がしました。

 

そして館内にある世界最初の蒸気機関車(ただし再現機)と感動のご対面です。

リチャード・トレビシック(1771年~1833年)が製造した蒸気機関車の第2号機が1804年2月21日に南ウェールズのペニダレン(Pen-y-daren)において最高時速8kmで走ったのです。これが世界で初めて実際に走行した蒸気機関車の「ペニダレン号」です。

Pen-y-darenは炭鉱があるところの地名で(ウェールズ語のようです)、日本の書籍のカタカナ表記がバラバラであって、「ペニダレン、ペンダレン、ペナダレン」などと書いてあります。この博物館で確認した発音はペニダレンまたはペニーダレンでした。そのため、この投稿ではペニダレン号としておきます。

この世界初の蒸気機関車であるペニダレン号にはシリンダーが1つしかありません。中央にあるボイラー部分から順行側の前方である右に向かって水平に突き出ているのがピストン棒です。ピストン棒の前後運動がコネクティングロッドとクランクにより回転運動に変換され、そのトルクが機関車の順行方向の右側に配置されたギアに伝わって2軸の動輪を駆動する構造になっています。

 

シリンダーとピストンから生み出されるトルクが間欠的なものであるため、機関車の左側には直径2mといわれる巨大なフライホイール(はずみ車)があります。これにより回転速度の安定化(平均化)を図っています。

 

機関車の石炭の焚口が見えていますが、構造的な問題で、走行中に投炭することができないため、その都度、機関車を停めてから投炭を行う必要がありました。この蒸気機関車のボイラーは、ジェームス・ワットの据え置き型の低圧式蒸気機関とは異なり、当時としては高圧である3.5気圧のボイラーでした。ほとんど大気圧と変わらないワット式蒸気機関は蒸気機関車の走行には向かなかったので、高圧の蒸気機関を用いたという点が革新的だったのです。(注:蒸気機関車に高圧蒸気機関を利用するというアイデアはリチャード・トレビシック本人が最初に考えたわけではありません)

このペニダレン号において、投炭作業の問題よりも深刻だったのは、シリンダーが1本しかなかったことです。そのため、ピストンがシリンダーの一番端(死点)で停まったときに機関車が動かなくなりました。そのときには、人間がフライホイールにぶら下がってピストンを死点から死点外に移動させたそうです。

 

ペニダレン号の時代の平底レールと車輪です。車輪にはフランジ(出っ張り)がありませんでした。

リチャード・トレビシックの、蒸気機関車の開発者(または改良者)としての欠点は、ロバート・スチーブンソンのようなレールの改良(鋳鉄→錬鉄などに改良)に力を注がなかったことです。蒸気機関車の開発初期に使われた鋳鉄製のレールでは蒸気機関車の重量に耐えることができず、レールの破損事故があまりにも多かったのです。

そういう点で、トレビシックは、せっかくの蒸気機関車の発明を中途半端なものにしてしまいました。

 

この国立ウォーターフロント博物館のペニダレン号の展示方法は実に素晴らしいものでした。画像のように、階段の途中や2階からペニダレン号を見ることができるのです。

私は特別に英国や英国人が好きということはないのですが(どちらかというとアバウトであるためか寛容なところがあり人間味を強く感じるイタリア人が好きです)、蒸気機関車の保存方法や、その整備に関しては英国人は間違いなく世界一です。これは、貴族階級が資金を出しているということもあるのでしょうが・・

日本人は世界第2位を争っているというところだと思います。

 

2階から見たペニダレン号です。

リチャード・トレビシックはロバート・スチーブンソンのような鉄道関連技術の全般に精通したゼネラリストではありませんでしたが、初期の蒸気機関車を開発したスペシャリストであり、その点に限っては天才だと思います。

トレビシックがペニダレン号のシリンダーを1本だけにしたのは、まだ工作技術が未熟だったためであり、次善策として、そういう設計になったのでした。

トレビシックは、この時点ですでに、2本のシリンダーでクランク角度を90度ずらしておけばピストンの死点問題が解決するということを考えついており、特許まで取っていたのです。

 

博物館内のビデオ映像の抜粋です。ペニダレン号が本当に動いていました。2009年の撮影だったと思います。

ビデオの撮影技術には「?」なところがあったものの、とにかく必見と思われる超感動的なペニダレン号の走行シーンの映像でした。

リチャード・トレビシック役の俳優の「前説」が気絶しそうになるほど長いのですが、そこは我慢のしどころです。

ペニダレン号は、国立ウォーターフロント博物館に入館する前に博物館の前庭で見た再現軌道の上を走っていたのでした。

 

Richard Trevithick 1805 Steam Railway Locomotive

 

【鉄道黎明期の主な蒸気機関車の歴史】・・・今回の見学により英国内で見たかった機関車の見学が完結しました。

ここに、ささやかですが、これまでに見学した結果の集大成として年代順に見学した蒸気機関車を整理しました。

1.世界で最初に走った蒸気機関車ペニダレン号(試験走行のみ)

1804年:世界で最初に走った蒸気機関車ペニダレン号(再現機)です。製造者:リチャード・トレビシック

(2019年にウェールズで撮影)

 

2.世界初の2シリンダーの蒸気機関車「サマランカ号」 ・・・ (専用線のミドルトン鉄道で活躍。保存機がないので見学不能

1812年:ジョン・フレキンソップが考案し、マシュー・マレーが製造した世界初の2シリンダーの蒸気機関車「サマランカ号」です。

これはラックレール式の機関車でした。この蒸気機関車はトレビシックの設計を改良した蒸気機関車であり、特許料をリチャード・トレビシックに支払っています。また、ラックレールの考案者にも特許料を支払っていました。

当時は蒸気機関車の車輪とレールの粘着力の研究が進んでいなかったため、鉄製のレールと車輪の組み合わせでは空転が多発すると考えられていたのです。

 

3.世界最古の現存する蒸気機関車「パッフィング・ビリー」(ウィラム炭鉱の専用線で活躍)

1813年:ウィリアム・へドリーがパッフィング・ビリー号を製造し、運行に成功しました。現存している中では最古の蒸気機関車です。また、ラックレールを使わずに車輪とレールの粘着力だけで駆動する蒸気機関車でした。

(2016年にロンドンで撮影)

 

4.世界最初の公共鉄道の蒸気機関車であるロコモーション号

1825年:ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーが製造し、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の開業時に貨車を牽引したロコモーション号です。同社の旅客は馬車が牽引する列車を利用していました。(2016年にダーリントンで撮影)

 

5.世界初の旅客鉄道の蒸気機関車であるロケット号

1829年:ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーが製造したリヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道のロケット号です。

画像が実物のロケット号の保存機ですが、当初の斜めシリンダーは高速運転時に共振が発生するという大きな問題が出たため、デビュー後の早い時期にシリンダーを水平に近い角度に改造しました。

(2016年にロンドンで撮影)

 

イングランドのヨークにある国立鉄道博物館のロケット号の再現機(レプリカ)です。有名な「レインヒル・トライアル」で勝ち残ったときのロケット号の姿だと思われます。前述したとおり、共振問題により、リヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道の営業段階では、この35度の角度から水平に近い角度にシリンダーの角度を変更しています。(2016年にヨークで撮影)

黎明期の蒸気機関車の英国での見学歴は以上です。

 

今回訪問したスウォンジーの国立ウォーターフロント博物館のミュージアムショップで買ったペニダレン号の絵ハガキです。

連合王国(英国)の国立博物館ですので入場料は無料でした。館内にカフェや無料トイレットもあり、この機関車の他に海事関係や自動車関係など色々な展示物がありました。昼食は、この博物館のカフェを利用しました。カフェのスタッフも親切の人たちでした。

 

スウォンジーの国立ウォーターフロント博物館を後にしました。画像のようにペニダレン号のための再現軌道があり、周囲にタンポポが咲いていました。

 

【リチャード・トレビシックのその後】

リチャード・トレビシックの事業のようなものは、特許による資金調達とパトロンを見つけては蒸気機関車のデモンストレーションを行うという単純なビジネスモデルだったため大成しませんでしたが、リチャード・トレビシックの息子のうちの2人が技術者になっています。

リチャード・トレビシックの長男であるフランシス・トレビシック(1812年~1877年)は、ロンドン・アンド・ノースウェスタン鉄道の機関技師主任になり1847年に画像のコーンウォール号を設計しました。(2016年にシルドンで撮影)

1847年に製造されたコーンウォール号はシングルドライバー(単輪駆動)時代の機関車です。動輪の直径は2,592mmでした。

 

さらに、フランシス・トレビシックの息子(リチャード・トレビシックの孫)たちが鉄道技師になり、その中で、長男リチャード・フランシス・トレビシック(1845年~1913年)と三男フランシス・ヘンリー・トレビシック(1850年~1931年)は来日して日本の鉄道の発展に貢献しました。

・リチャード・トレビシックの孫のリチャード・フランシス・トレビシックの日本での16年間の功績

 1887年に来日。官設鉄道神戸工場において、国産機としては最初の蒸気機関車であるAE形(のちの860形)の設計・製造の指揮監督をしました。また9150形の製造時における設計のアドバイスを行ったほか、多くの日本人技術者を育成しました。

・リチャード・トレビシックの孫のフランシス・ヘンリー・トレビシックの日本での21年間の功績

 1876年に来日。神戸工場や新橋工場で蒸気機関車の製造・修理の責任者として活躍。1893年に開通した横川~軽井沢間のアプト式(ラックレール方式)鉄道の導入に貢献しました。この横川~軽井沢間の開業時はラック式の3900形蒸気機関車(ドイツ製)が使用されていました。画像は1912年の電化後に使われたラック式の10000形電気機関車(ドイツ製)です。

 

青は藍より出でて藍より青し

スウォンジーからロンドンまでGWRのClass800で帰りました。日本のメーカー(日立製作所)製の車両が英国を走るなどということは明治時代の人には信じられないことではないでしょうか。

右側の白いスタジアムは、イングランドのリーグ戦に参戦しているウェールズのスウォンジー・シティAFCの本拠地であるスウォンジーのリバティ・スタジアムです。

 

ウェールズのニース(ニースポート)付近のニース川です。

炭酸水のペットボトルが車内で暴発した以外はロンドンまで平穏な列車の旅でした。

この日のロンドンでの夕食のときに、念願だったペニダレン号を見学した記念に、かなり高級なボルドーの赤ワインを開けてもらいました。

(つづく)