東京の旅(曳舟~浅草)都鳥の巻 | 鉄道で行く旅

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銀座駅から大手町駅を経由して半蔵門線の曳舟駅に向かいました。

東急5000系の南栗橋行「急行」に乗車しました。

 

曳舟駅で見た東武亀戸線の8000系です。

 

2017年5月にスカイツリーから撮影した曳舟駅付近です。

 

曳舟駅から鳩の街商店街を抜けて向島5丁目のある場所へ。

榎本武揚の旧居跡です。今はマンションが建っています。

 

榎本武揚(釜次郎)(1836年-1908年)
幕末・明治期の幕臣・政治家。

江戸下谷生まれ。少年時代、昌平坂学問所で学び、その後に蘭学伝習生として長崎へ行き、江戸に戻って海軍操練所教授となる。文久二年(1862年)オランダに留学、帰朝後、幕府海軍の副総裁となる。
箱館(現在の函館)の五稜郭で新政府に抗した。翌年降伏したが、明治五年(1872年)から北海道開拓使四等官(現在の県知事クラスの扱い)として新政府に出仕、いくつかの大臣を歴任して子爵に列せられるまでになった。

榎本武揚は新政府出仕後も、明治時代の政府高官が住むような大きな屋敷には住まず、向島を愛して小さな家に住んだ。また、新政府出仕後も箱館戦争時代の部下を平然と家に招いていたという。

 

土方歳三の甥の土方隼人作助が、 新政府高官になっていた榎本武揚のもとを「戦のときの歳三さんのことを知りたい」と訪ねたとき、

榎本は土方歳三の甥に「入室伹清風」(にゅうしつしょせいふう)の書を贈っています。「梁川」は榎本武揚の雅号です。

これは『土方歳三が部屋に入ってくると、清らかな風が吹くような、(歳三は)そんなさわやかな人物であった』という意味です。

 

墨堤に沿って言問橋まで歩きました。

詩人の野口雨情が言問団子を食べたときに「都鳥さへ 夜長のころは 水に歌書く 夢も見る」という歌を詠みました。その歌を刻んだ歌碑が言問団子の店舗の近くに建っていました。

 

【言問団子】

北海道新幹線

言問団子と「都鳥」の絵が入っている陶器です。(2016年4月)

 

正岡子規の大学予備門時代の仮寓の地です。子規は長命寺に隣接している「桜もち」の「山本や」の2階に仮寓していました。

 

北海道新幹線

「山本や」の長命寺「桜もち」です。(2016年4月)

 

言問橋から見た東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の隅田川橋梁です。

スペーシアが通過しています。

 

2017年5月にスカイツリーから撮影した東武鉄道の隅田川橋梁です。

 

2017年5月にスカイツリーから撮影した言問橋です。

 

♪なにも言うまい 言問橋の 水に流した ・・・

『こまどり姉妹』といっても今の人は知らないかもしれません。

 

スカイツリーと言問橋です。

名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと(在原業平)

 

東京スカイツリー天望シャトル「冬・都鳥の空」の装飾です。(2017年5月撮影)

 

再びスペーシアが通過していきました。

 

久野節が設計した昭和初期の名建築である東武浅草駅ビルです。

久野節の設計で、ほぼ同時期に大阪難波の南海ビルディングや宇治山田駅(現在は近鉄の駅)が建てられています。

 

東武鉄道の浅草駅ビルの正面です。いわゆる「松屋浅草ビル」です。大阪の南海ビルディングも「高島屋大阪店」のイメージですから、その点で両ビルは似ています。

(つづく)