鳴尾球場跡地と甲子園球場 | 鉄道で行く旅

鉄道で行く旅

鉄道旅行を中心としたブログ記事を投稿しています。

豊中グラウンドに続いて、現在の全国高校野球選手権大会の昔の開催地だった鳴尾球場の跡地まで行ってきました。

近鉄車で向かった阪神電車の甲子園駅です。

 

阪神甲子園球場を横目に見ながら鳴尾球場の跡地まで歩きます。

 

出かける前に昔の地図などで鳴尾球場があった場所を確認しました。

戦前の鳴尾競馬場は「鳴尾競馬場」と「地図上の関西競馬場(関西競馬倶楽部による鳴尾西浜競馬場)」の2つが統合されたものでしたが、鳴尾球場があった場所は地図上の関西競馬場(鳴尾西浜競馬場)でした。(鳴尾西浜競馬場→統合後の鳴尾競馬場→戦前の阪神競馬場→戦後に新しい阪神競馬場を阪急仁川駅の近くに開設)

阪神競馬場の重賞レースの「鳴尾記念」は旧鳴尾競馬場に因んだレース名です。東京競馬場の「目黒記念」と同じですね。

 

現在は武庫川女子大学附属高校・中学の関連施設である「芸術館」になっている旧・鳴尾競馬場本館(貴賓館)の建物です。鳴尾競馬場時代の建物としては唯一現存しているものです。

競馬場の中に設けられた鳴尾球場は球場として使われるときにだけ仮設スタンドが設置されました。

 

浜甲子園の鳴尾浜公園にある鳴尾球場跡地のモニュメントです。地図上では鳴尾球場があった場所よりも少し南側のような感じです。

おそらく2面あった鳴尾球場のうちの西側の外野場外から100mぐらい離れた場所です。

 

鳴尾球場跡地の説明です。

第3回~第9回まで(第4回は地方大会だけで終了)鳴尾球場で当時の中等野球の全国大会が開催されましたが、今度は電車の輸送力ではなく、仮設スタンドの球場では押し寄せる観客をさばき切れなくなり、阪神電鉄が甲子園球場の建設に踏み切ることになりました。

鳴尾球場時代は参加校の遠征費は全額が参加校負担だったため、大会日程は参加校の増加により試合数が増えても5日間に決められていました。このため鳴尾球場のグラウンドは2面ありました。

 

抜粋ですが、鳴尾球場の大会結果の一部です。

第3回です。愛知一中(現在の愛知県立旭丘高校)が優勝しました。実は愛知一中は1回戦で長野師範に敗れており、このときの敗者復活戦ルールに救済された末に愛知一中が優勝していたことが分かりました。

 

鳴尾球場で最後に行われた第9回大会です。観客がグラウンドに乱入して試合続行が困難になりかけた問題の試合は、準決勝戦の甲陽中(兵庫)と立命館中(京都)の対戦のときでした。旧制の甲陽中は酒造会社の白鹿(西宮郷の酒造家・辰馬吉左衛門)が甲陽中の建学直後の苦境時に援助を行って存続させた学校です。この大会当時は、このすぐ近くの兵庫県武庫郡今津村(現在の西宮市甲子園)に甲陽中の校舎がありました。

ご参考までに、旧制の灘中も灘の酒造家の嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立されています。

 

よく考えると、この記念碑の場所は昔の阪神軌道線の浜甲子園(電停)の近くでした。

大垣に拠点を持つ岐阜ナンバーの名阪近鉄バス(近鉄グループである三重交通の子会社)が走っていました。おそらく大垣日大高校の応援客のバスなのだと思います。

 

この浜甲子園に大型バスの駐車場があるようです。画像は浜甲子園から見た甲子園球場です。ここから甲子園球場まで徒歩で20分ぐらいかかるのではないかと思います。

 

久々に目にした阪神タクシーのタイガース塗装車です。通常の阪神タクシーの車両は右上の塗装です。

 

3塁側アルプス席に入場する大垣日大の大応援団です。

 

今夏から高校野球のときの外野席が無料から有料になりました。昨年までは、地元でもありますので、気軽に出入りしていた外野席でした。しかも今回は外野側から甲子園球場に近づいたので、わざわざ内野側にある入場券売場まで入場券を買いに行かなければなりませんでした。

 

ただ、内野側まで歩いたことにより兵庫県警の機動隊の現場指揮官車と思われる「トヨタのランドクルーザー100ワゴンVX」を見ることができました。

 

ぐるっと球場の外周を一周してライトスタンドに入りました。甲子園球場の高校野球では、地元の関西のチームを応援したことは一度もなく、なるべく地元ではないチームの試合を見ることにしています。(比較的に空いているためです。またスター選手がいるチームの試合も入場を避けます)

 

プレーボール!

 

甲子園からの帰りに見た山陽6000系の直通特急です。

(おわり)